妄言夫婦漫才のカタワレ曾野綾子の正論は今日も凄かった

相変わらず曾野綾子先生が本日も正論にて「相対化して問題の本質をすり替える」方式の妄言を吐いているわけです。

【正論】新しい年へ 作家・曽野綾子 どこまで恵まれれば気が済む 2008.1.9 02:52
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080109/trd0801090253000-n1.htm

■「引き算」人生で落ち込む日本人
 ≪欠落部分に耐えられず≫
 戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして私流の判断をつけ加えれば、今日食べるものがないというのでもなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞社が昨年12月行った全国世論調査では、30、40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。
 しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。
 ストレスは文明の先端を行く国に多いのだろうと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会にも実はあるのだと或る時教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとしたり、同族の絆(きずな)の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。
 私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも「足し算・引き算」の方式で自分の心を操って来た。
 健康で、すべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。
 ≪完全な平等だけを評価≫
 食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。
 何よりも日常生活の中に爆発音がしない。それだけでも天国と感じている。これが足し算型の人生の実感だ。これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。
 しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。しかし不平等な才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕(むしば)む。
 叱(しか)る先生は父兄に文句を言われるから「生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師」のようなことなかれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほんの一部を見ているに過ぎない。
 ≪人のためを考えること≫ 
 躾(しつ)ける親も少ない。子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったというから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた人間性を生むのである。
 何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ。つまり自分以外の人生を考えたこともない身勝手な意識のままの大人になる。本の知恵はテレビやインターネットの知識とは違う。
 戦後教育は「皆いい子」と教えた。ところが人間性の中には、見事さと同時に底なしの身勝手さと残忍さも共存している。このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから、思いつきで人を殺す。多分罪を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ。今はDNA鑑定にも何故か黙っているが、昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた。言うことの筋が通らない。
 人間は自分のためだけでなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主義の悪に利用されるだけだ、という人は今でもいる。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、自分の意志で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら、今後も不安と不幸に苛(さいな)まれる人は増え続けるだろう。今年は政治や社会がそのことに気づくかどうか。(その あやこ)

まったく曾野綾子はどこまで馬鹿になれば気が済むのかといった内容であるが、こんなのを掲載して「ワーキングプアが…」「こころの問題が」なんてことをエラソウに語る産経の偽善ブリには情けなくて鼻血もでないぜ。いわゆるネトウヨさんの論理を読んでいつも不思議なのは「俺ちゃんルール=世界の常識」みたいな部分なのだが、曾野綾子センセイは今日もジャンジャンバリバリ、リミッターぶち切って「愚民ども私の常識=宇宙の常識」とばかりに書き飛ばしている次第。*1

私はこのテの「あんなに苦しんでいる人がいるんだから自分の立場を幸せに思え」式の考え方は、その論旨が「唯それ足るを知る」というような心持ちの重要さを説く内容であったとしても、単なる他者との相対化によって自己の地位を確認する作業を進めているに過ぎないとしか思えない。答えがよければいいじゃないか、という意見もあるだろうが、答えを導き出す式の組み立てがそもそも「狂って」いるのなら、そのことは指摘せざるをえない。「たまたま」答えがあっているだけかもしれないし。

 戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして私流の判断をつけ加えれば、今日食べるものがないというのでもなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞社が昨年12月行った全国世論調査では、30、40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。

この言い方には絶句する。個人的には発展途上国現代日本という全く状況が違うものを比べて安堵するという思考には反吐が出るとしかいいようがないのだが(極めて偽善的かつ途上国の人間を自分の幸せを実感する「道具」にしている)、とりあえずそれはおいて話を進めると、実際問題そのことと「心の健康に不安がある」と答えた人が40%もいる、ということとはなんの関係もない。その人たちにはそれぞれの理由があるだろうし(あんたとあんたの旦那が大好きな自民党規制緩和を推し進めた先にワーキングプア問題があることなんて知りもしねえだろうしな)、「心の健康に不安がある」人たちはそれぞれの「戦場」を抱えているのだ。そしてこの身体に「戦場」を抱えている、という意味では、(こういう言い方は語弊があるしあまり好きではないがあえてする)曾野綾子氏が「=不幸である」とする発展途上国の人間も、心に不安を抱える「自分の幸せに無自覚な」現代日本人も同じ「今日一日を必死で生き抜く人間」なのである。そういうことに対して本当にこのババアは無神経なんだな、ということはこの文章からひしひしと伝わってくる。まあ「強者の論理」で生きていくことになんの疑いも持たない無神経な人間だから「罪の巨魁」なんて恥さらしができるんだろうけど。それはさておき、続ける。

 しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。
 ストレスは文明の先端を行く国に多いのだろうと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会にも実はあるのだと或る時教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとしたり、同族の絆(きずな)の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。

心底馬鹿だな。なんだよ「ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。」って。そんな定義聴いたこともないぞ。そういう部分も内包した、もっと包括的にとらえてこそ物事の本質が見いだせると思うんだが。つーか「すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり」って、だったら途上国の人間の生活と比べて幸せを実感しろなんていうなよ。冒頭で自分が何を書いたか忘れたのかねえ。またその後の下りも凄い。人間が本来もっている情動から外れたようなことをしたら(されたら)、ストレスになるだろうに。曾野先生はひょっとしたら戦中、みんな喜んでお国のためにって旦那や息子、兄弟を戦場に送り出し、戦死したら「役に立った!」って心から考えたとかって思っているのかね。怖いのは皮肉でも何でもなくて素でそう思ってそうなところだな。

 健康で、すべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。
 ≪完全な平等だけを評価≫
 食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。
 何よりも日常生活の中に爆発音がしない。それだけでも天国と感じている。これが足し算型の人生の実感だ。これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。
 しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。しかし不平等な才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕(むしば)む。
 叱(しか)る先生は父兄に文句を言われるから「生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師」のようなことなかれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほんの一部を見ているに過ぎない。

なんだか曾野センセイの妄想大爆発といった感じですな。(特に「叱る」以後の段)生活を別にしている教師には、何か事件が起こったときでも罪は無い、と。そういえば葬式ごっこなんてのに参加した教師もいたし、セクハラ、あるいはこんな教師までいたらしいじゃないですか。

■ 「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」??あきれた教師、分限免職


 大阪市教育委員会は8日、特別支援学校の男性教諭(43)を教員として指導力不足で適格性に問題があるとして分限免職処分とした。この男性教師は、20年の勤務実績を持つベテランだが「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」「地図の上は北で下は南」、経線を「かけせん」と読んだりと、仰天授業を展開。1年間の校外研修を行ったが、改善が見られず、今回の処分が下った。

 中学校で社会科を約6年担当し、特別支援学校で14年勤務してきたベテラン教師が、トンデモ授業を行っていたことが、大阪市教育委員会の調査で判明した。

 調査によると、43歳の男性教師は、地図の読み方を説明する際、生徒に「上は北で、下は南」と見たままの?謎解説。山陰地方の「陰」の字も誤字で板書。指摘があって教科書を見ても、書けず、そのまま放置して先に進んでしまった。

 数学の授業では「三角形は一つの曲線と二つの曲線に囲まれる」と説明。経線を「かけせん」と読んだり、パソコンの授業では、的確な指示ができなかったことも。新学年になった時に、発注する教科書を前年度と全く同じものを頼んでしまう凡ミスもあった。

 特別支援学校では科目ごとの専任を置かず、幅広い分野を指導することが求められているというが、かなりの問題授業が常態化していたようだ。

 生徒や保護者からの訴えが続いたことで、事態を重く見た教育委員会では、昨年1月から1年間、模擬授業を行うなどの校外研修を行った。が、ここでも、助言や指導に対し「言い過ぎだ」「中傷だ」と声を荒らげ、逆ギレ。途中で席を立ったこともあったという。

 教育評論家の尾木直樹氏は今回の処分に関し「妥当でしょう。分限免職処分は認定が非常に難しく、裁判になることもあるが、これだけの証拠を集めたのは珍しいのでは?」と話す。

 「アルコール依存症、ヘビースモーカーで授業が手につかなかったりはよくある話。計算ミスを繰り返す、お経を唱えているような授業をする、というのもよく聞きます」。同氏によると、全国的に健常者の学校で問題が発生した場合、特別支援学校に異動させる人事が行われる傾向にあるという。

 分限免職処分は、地方公務員法第28条第1項第3号で定められており、懲戒免職とは異なり、退職金の受け取りが可能。大阪市では04年に3人の分限免職の処分者を出して以降、今回で4人目の処分となる。

スポーツ報知

そもそも産経新聞で以前教師の指導力不足日教組の責任とかなんとか特集組んでませんでしたっけ?ついこの間の「主張」でもこんなことをいっていたし。それにしても読んでいて思うのはどうしてこう、曾野センセイの論理展開って片手落ち、つまり二元論でしか語れないのだろうか。どうも総合的な視点から物事を分析するというのは激しく苦手な人のように思える。

 ≪人のためを考えること≫ 
 躾(しつ)ける親も少ない。子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったというから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた人間性を生むのである。
 何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ。つまり自分以外の人生を考えたこともない身勝手な意識のままの大人になる。本の知恵はテレビやインターネットの知識とは違う。
 戦後教育は「皆いい子」と教えた。ところが人間性の中には、見事さと同時に底なしの身勝手さと残忍さも共存している。このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから、思いつきで人を殺す。多分罪を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ。今はDNA鑑定にも何故か黙っているが、昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた。言うことの筋が通らない。
 人間は自分のためだけでなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主義の悪に利用されるだけだ、という人は今でもいる。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、自分の意志で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら、今後も不安と不幸に苛(さいな)まれる人は増え続けるだろう。今年は政治や社会がそのことに気づくかどうか。

どうも読んでいて「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉が脳裏に浮かんでは消えるのだが気のせいだろう。「本の知恵」を強調している箇所を読むと、はるか昔、朝日新聞かなんかでの息子との公開往復手紙の中で(彼が「大人は性教育を恥ずかしがって必要なことを教えない」としたのに対し)「性教育する必要はない。本を読め、本には全て書いてある」と逃げた曾野センセイの勇気ある姿が目に浮かびます。まあそんなコネタはどうでもいいんですが、結局最後に登場するのは戦後教育悪者理論ですか。戦後民主主義教育が悪いってんで旦那が提唱したのが「ゆとり教育」じゃなかったんでしたっけ?激しく爆裂しましたが、そのことはやっぱりスルー。確かにこういう欺瞞としても破綻している小理屈を私程度の人間にぐだぐだ言われてしまうあたり、戦後教育は都合悪かったんじゃねえの?と思ってしまいます。曾野センセイにとって。


追記。鬱のため自殺したと言われる西村真悟衆議院議員のご子息(鬱病は強いストレスがその要因といわれているのだが)の痛ましい自殺に対して、曾野綾子氏はこの「正論」での主張ーー「親の教育・躾がなっておらず、自我が未完成で、本人が発展途上国に比べて自分の幸せを省みられない正確だからだ」ーーを西村議員の前で吐けるのだろうか。

西村衆院議員の長男転落死:長男、強いうつ状態
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080110ddm041040027000c.html
死亡長男は「強いうつ状態だった」 西村議員が手記
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080109/crm0801091957029-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080109/crm0801091957029-n2.htm

*1:黙然日記さんとこでも取り上げていたhttp://d.hatena.ne.jp/pr3/20080109/1199878513ことに、エントリーを書きながら気付いてしまった。後追いなら後追いらしく、違う視点も見いだせないながら頑張ってみる。