本当に死刑でよかったのか

光市事件に、判決がくだった。

産経:【光市母子殺害】被告に死刑宣告 新供述は「不自然、不整合、到底信用できない」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221202010-n1.htm

読売:光市母子殺害、当時18歳の男に死刑判決…広島高裁
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080422-OYT1T00269.htm?from=any

朝日:光母子殺害、元少年に死刑判決 広島高裁差し戻し控訴審
http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200804220010.html?ref=any

なぜこの事件は無期懲役ではなかったのだろうか。私が調べた限りでは、殺意があるとするには難があるし、計画性にも疑問符をつける。(計画的に犯行を行おうとする人間が所属会社の制服で各戸訪問するのだろうか)だがそれらはことごとく却下された。

最高裁が差し戻した段階で「死刑前提」となり(推定有罪とでもいうのだろうか)そのため弁護団は殺意がなかったことなどを立証する必要性が生じた。弁護団は綿密に調べていたと私は(さまざまな資料から)判断するが、今回新たに弁護団が提示した「事実」は認められなかった。

今回の事件、語弊があるのを承知の上であえて述べるが、刑事事件に注意を払っている人間ならば、「珍しい案件」ではないことがわかると思う。その「事件」がここまでクローズアップされたのは、遺族のアピール力に負うところが大きいと思う。そしてそれに寄り添うかのように見えて、弁護団の主張を「正しく」伝えるどころか、BPOから勧告されるほどに「抜書き」したセンテンスを繰り返し過剰なまでに垂れ流したマスコミと、それに対して疑問を持たない人々が形成する「感情的な世論」と。だが、それで果たして「司法制度」の理解につながるのか、このような状況下では「裁判員制度」なんて運用できるとは思えなくなってきた。

誤解する人が多いので改めて書くが私は死刑廃止論者ではない。冤罪という可能性を考慮しても、そして無期懲役が最長50年ほどになる場合もありそれが人々の膾炙となった事件ほどその傾向が強いこと、また無期懲役は10年で出てこられるなんてことは事実上あり得ないことも知っている上でなお、死刑制度は維持したほうがよいと(今のところは)思っている。だが刑事事件の裁判は、私刑の場、報復の場であってはならないとも思っている。「何が起きたのか」を検察、弁護双方の立場から読み取り、「国」が裁きを下す。遺族だって最も知りたいのは「その理由」ではないのだろうか。そういう「厳密な空間」を安易な感情発露の場に貶めていいわけはない。とはいえ、被害者やその遺族に対する精神的物質的ケアはもっと国が率先して行うべきだと思っている。それは「報復」して「よし」とするような、「厳罰を与えたからそれでいいだろ」的なものとは違う、被害者や遺族の感情にもっとよりそったものであるべきだ。犯人が死刑になったからといって、被害者や遺族の「苦しみ」が終わるわけではないのだ。

私自身は、この事件においては、死刑適用すべきではなかったように思う。判決全文を読んだら改めてこの事件を見直すつもりだが、たぶんこの認識は変わらないように思う。

追記
日テレニュースZEROをみていたら、弁護団の記者会見への出席を拒否されたといっていた。被告と接見したらしいのだが、その後弁護団に報告するよういわれていたにも関わらず、それを反故にしたことを理由に挙げられたそうだ。ニュースZEROでは「国民の知る権利を侵害する行為」とぶちあげていたが、今日の報道ステーションもそうだけれども、BPOの意見なんてまるで意に介さないような態度で報道を続けている。こうして「合意」は形成されていく。まさにマニュファクチュアリング・コンセント。