セックスに愛が絶対に必要だ!なんていわれると若いねとしか言いようがない

某所*1で「セックスに愛は絶対に必要である」と主張されている方をお見かけしてちょっとそんなことを思いました。

性的な快楽は性的な快楽でしかなく、それをどういう風に位置づけるかはあくまでも「個人の自由」にすぎない。だってねえ、片方が「愛のあるセックス」と認識していても、相手は「金銭を媒介にしている愛のないセックス」としていた場合、その「愛」の定義はどうなるんだとか思ってしまいますわ。思考停止言葉のひとつでしかないんじゃないかしらん。「性交渉」という単なる動的な「行為」(行為は行為でしかなく、そこに意味や価値はない)と観念上の概念であり定義づけはたぶんに個々人の価値観に依拠する「愛」をコンドーするのはいい加減やめにしないかね?ちんまんにどのようなデルフォイのオラクルを見出すかは個人の勝手ですが、幻想を幻想と認識した上で消費するのが近代的自我の洗礼を受けた正しきオトナ(まんこから血を流して幾星霜、カルピスどぴゅっと悠久のときをすごした黒いティムポ)なのではないでしょうか。それに「愛のないセックスはいけない」というのならば、「愛のあるセックスだったらいいのか」ということになり、それはつまり世の男性諸氏がしばしば用いるあの魅惑的な「愛しているよ(だからスムーズ挿入希望)」というささやきを暗に肯定してしまうことであり、その結果「私の青春を返して!」と明け方のファミレスで叫ぶことになるのです。実際に見ました。相手の男性はうつむいていました。

まあ苦みばしった白濁液的追憶はともかく、行為は行為として単体で評価することが必要であり、あとは個人の裁量での判断となってしまう以上そこに依拠するのは危険なんじゃねーかと思うのです。性交渉において「愛」は必要条件であるとは思うけれども、必要十分条件というわけではない。また「愛」を至上命題としてしまうとその名の下に肯定されてしまう「行為」があるという視点は絶対に外してはいかんのです。 ゴルディオスの結び目はいつでも一刀両断すればいいというものじゃ、ないのです。

そこで私?私はといえば、そんなあやふやで正体不明ななんだかわからない「愛」ゆえに、ではなく、自分が感情移入できる相手とだけセックスしようと思っています。それも倫理的にどうこうよりそのほうが楽しいという即物的な面が非常に強い。相手を楽しませ自分も快楽を得ようとしたら、かなり自己を曝け出さないといけないし、そうするためには相手と自分の間にかなりの「了解」を生み出す「親密さ」が当然のことながら必要になってくる。その「親密さ」を構築するためにはそれなりに感情移入できる相手ではないとならないし、またそうなると相手に興味がなければそこまでの関係性をそもそも構築しようという気にはなれない、という論法ゆえ「感情移入できる相手とセックスしたい」となるのです。まあなんですか「乳首に輪ゴムはめて鬱血させて、それを引っ張りながら、鞭で優しくなで上げて、騎上位でキメた後に馬になるから尻をたたいてベッドの周りを三周させて」なんてことをすんなりと口にしても「了解」がとれる無問題な関係性を作り上げてからセックスしましょうということです。「愛」よりもずっと直裁でイージーだからこそ確かです。そしてそれ以外は添い寝で十分です。

*1:mixi