「イングロリアス・バスターズ」徹底的に娯楽でありながら目はマジだ

※以下若干のネタバレを含みます。

まず最初に断言するけど、これは傑作です。

ストーリーは、ナチスに家族を殺されたユダヤ人の少女の復讐譚とアメリカの特殊秘密部隊「イングロリアス・バスターズ」のテロ工作がフランスの映画館で交差し、集約される、という実にシンプルな物語なんだけど、一筋縄でいきそうでいっていかないというあたりが実に心憎い。

事前に映画評論家町山智浩さんのイングロリアス・バスターズ元ネタばらしイベント(後述参照)に参加していたせいか「アントーニオ・マルゲリッティ」で爆笑することができたんだけど(ちなみにこの「アントニオ・マルゲリッティ」というのはカルト映画「地獄の謝肉祭」の監督アンソニー・M・ドーソンの本名です)そういう細かいマニア心をくすぐるネタから、あのシーンこのシーン、バックに流れる音楽といいことごとくよそから引っ張ってきたもの(例えば冒頭ブラッド・ピット扮する「イングロリアス・バスターズ」を率いるレイン中尉がバスターズの面々を前に演説するシーンはまんま「特攻大作戦」のそれだし)でありながら映画自体は完膚なきまでにオリジナルであるというこれこそがまさにタランティーノの真骨頂といえるんじゃないだろうか。(ちなみに元ネタ知りたい人は映画秘宝の“「イングロリアス・バスターズ」映画大作戦!”を買うとよろし。タランティーノという人があきれるほどオリジナリティ皆無の人であることがよくわかると思う。そしてそれは決定的に「アリ」なんだということも)そもそもフツーはそこが映画のレゾンデートルだろという「テーマ曲」すらも「遥かなるアラモ」なんだし。

つまり「面白くて当たり前」なのである。昔の映画のカウパーダダ漏れシーンを寄せ集めてきたわけだから。マニアであればこそ元ネタ探しに躍起になるし、知らなければシビレルシーンてんこ盛りなんだし。とはいえ、これが単なるパクりとならないのが「物語の骨子がオリジナル」であればこそ。(そのあたり方法論がフリッパーズ・ギターと似ているんだよね。)パクリ映画は「骨子が同じで、シーンや演出、構図でオリジナリティをだそうとする」(だからたいていつまらない)ものなんだけど、それはなぜかというと監督の腕を見せ所は「シーンや演出、構図」であるから。物語は同じだけど見せ方が違うというのはかなり昔から免罪符で用いられている。(例:デ・パルマとか)ところがタランティーノの場合は臆面もなく「あ、このシーンはあの映画のここからもってきちゃおう」とやってしまう。手法が逆なのだ。まさに手段のために目的が構築されたような映画なんだけど、今回はキルビルのように破綻まっしぐらとはいかずいい意味で生かされている。(たぶんイーライ・ロスのおかげだと思う)「フィルムが煙に映写されて顔が生き物のように動くシーン」なんて、凄艶で素晴らしい。いちいちゲーリングやボルマンが画面に登場するたび矢印がでて「ゲーリング」と注釈がついたりするあたりとか、チャーチルヒットラーがあんまり似てない(のでチャーチルなんか認識するまでに時間がかかり気づいたときにはもう登場シーンが終わっていた)ところやゲストアクターもそれとすぐにわからないように配置されている(日本の市川なんとかみたいに「ゲストアクターは必ず大写し3秒静止」を実践するような野暮さは皆無。無線会話の相手がハーベイ・カルテルだったりマンドレイク大佐を意識したと思しき将軍役のマイク・マイヤーズとか実にさりげない)ところなんかたまらない。

このように徹底的に娯楽エッセンスを詰め込んだ作品でありながら、根底においてこの作品は「マジ」である。(先日鈴木則文監督のトークショーに参加した際に監督がおっしゃってた「馬鹿な作品こそ根底に真面目なテーマを抱えてないとダメだ」的な言葉を思い出した。鈴木則文監督の「温泉スッポン芸者」は実は監督いわく「反戦映画」だそうである。私もそう思う)「ユダヤの怨嗟」があるからこそ、映画としては「反則」の山場であっても、喝采を送ってしまうのだ。1944年にああだったら。それは誰もが思うことであって、そして映画で実現されたことは(プロパガンダ映画を除いては)ほとんどなかったんだけど、ありうべき姿ありうべき未来の姿として夢想しなかった人間はいないだろう。(当の、ドイツ人でさえも)であればこそ、あの「山場」がカタルシスをもって迎えられる。こうであったらを実現しなくてなにが映画だ、とすら私は断言できる。この映画は一見「ドイツ人の複雑な心境」について考慮してないといえるかもしれない。だがこれは「ユダヤの怨嗟」が生んだ「ファンタジー」なのだ。おそらくここまで「ユダヤの怨嗟」に真っ向から四つに組んで全面解放した「娯楽作品」ってなかったと思う。ナチ野郎の頭をバットでぶん殴りたいと思わなかったユダヤ人はそう多くないだろう。やったら面白いんじゃね?じゃあ実現させようぜ。そんなタランティーノの「徹底した娯楽傾向」と「ユダヤの怨嗟」との幸福な結婚といえるんじゃないか。(そして結局のところ「暴力装置としての役割」でしかない「戦争」さらには「人種間の対立構造」を抉り出すことに結果として成功している。)

この辺も本人曰く「タランティーノのブレーン」(町山さん談)として映画に出演(異名「ユダヤの熊」としてバットでドイツ兵士を殴り殺すユダヤ人役)しただけではなく、映画をまとめる際のアイデアなどもだしたというイーライ・ロス(確か家族を強制収容所で亡くしているユダヤアメリカ人)の力も大きいという。ちなみにこの殴り殺す際に使うバット、映画本編でよくみるとなにやら書き込みがされているが、本当は「ナチ狩り」討伐隊に選ばれたことを喜んだ近所の人たちがイーライ・ロスに「これでナチ野郎の頭を場外ホームランしてね!」と贈り、集まってみんなで寄せ書きをするという「心温まる」シーンがあったそうだが、編集上カットされたという。大変残念だ。ソフト化する際は是非「完全版」としてこのシーンも入れて欲しいと思う。(マギー・チャンがヒロインであるフランス人少女の叔母役で出演し、彼女に映画館を譲り渡して死ぬシーンはどう考えてもイカレすぎなのでいれないほうがいいと思うけど。中国人がフランス人の叔母って訳がわからん)

それにしても「ユダヤハンター」ハンス・ランダSS大佐がすこぶる西村晃的で非常によかった。後半なんて西村晃にしか見えなかったし。細かく配役を見ていくと4年間で異常成長を遂げたとしか思えないヒロイン(冒頭どう多く見積もっても16歳ぐらいにしか見えないのに、再登場したときは25歳ぐらいだろあれ。レジスタンスとして隠れ住む生活は人を老け込ませるのかもしれないな)とか映写技師どうなったんだ?とか矛盾点はいろいろあるんだけど、終わりよければ総てよし。最後までブラックジョークで貫徹し、変なヒューマニズムを発露させないあたりがとても心地よかった。シンメトリーに配置された登場人物なんかについても触れたかったけど、それは省略。是非劇場で見てください。

映画秘宝の特集号に上記イベントの内容が載っているので興味ある方は是非。
・「イングロリアス・バスターズ」映画大作戦!
http://www.yosensha.co.jp/book/b51430.html

だけど、ねえ…。喜んでばかりいいのかという思いはある。

タランティーノの技法とイーライ・ロスの頭脳が結実した傑作なんだけど、とはいえ、元枢軸国の一員であった人間が単純に喜んでいていいのか、という命題を実はずっと抱えている。これが東條英機の頭をバットでブン殴る話だったとして、果たして喜べるかどうか、という問題ですな。(個人的には東條よりも牟田口だとかをブン殴る話でもいい気がするんだけど)どっちかというと中国人や朝鮮人、沖縄人よりも、当の兵卒がブン殴りたいと思っているというあたりが(中国人がブン殴ろうとしたら上等兵あたりが「待て!」と止めて、やられるかなと思ったら「俺にやらせろ」とバットを奪い取るとかさ)現在まで続く日本の本質的な問題と地続きだなーとか思いをめぐらせている。それはさておき、そういう映画、いまは無理だろう。昔ならドサクサにまぎれて岡本喜八あたりが撮ったりするかもしれないけど。
で、戻る。元枢軸国の一員かつ大日本帝国陸海軍ならびに銃後の守りとして一億玉砕魂を背負った人々の血脈を伝える「現代ニッポンのわれわれ」は、この映画をどう捉えるべきか。無視するべきか憤るべきか。否。ただ腹を抱えて笑うべし。大日本帝国陸海軍の赤子たるわれわれは、ただただ、笑うべきなのだ。性根を据えて笑え。