光市事件の判決についておもうこと補足

今回の光市事件の判決をうけて、私は「これは○○(無期懲役とか)が妥当だよね」という気はさらさらない。むしろそういう風に「通ぶって」語ることは避けたい。あの事件を調べていて痛切に感じたのは「ないがしろにされる被告人」だった。あの弁護団がついて初めて被告人は自分の意思を語り始めたように思えた。

「犯罪者がないがしろにされて当然だろ」という意見もあるかもしれない。でも「被告人をないがしろにし、犯罪が行われた背景を語ることを封じる」ことは、「なぜ殺されたか」が曖昧になってしまうことでもある。何故殺されたか、その事由が曖昧になることは、殺された側の事由をも、曖昧にしていくことなのではないか。そしてそれは結果的に「被害者すらないがしろになる」ことになるのではないか。私は裁判でそこが争われないことが一番納得がいかない。

だから裁判でそこが争点になり、被告人なりの「論理」が明確になり、よって審理され、そうやって初めて本当の意味での「刑事裁判」といえるのではないだろうか。それででた「判決」ならば、私はもう、なにもいうまい。正直な感想をいえば、差し戻し控訴審まで、そのような「直球の」弁護が行われていたとは資料を読む限り、とてもそうは思えない。しかし、控訴審でようやくそれが実現したときには、すでに「世論の声」(やつを高く吊るせ)に司法が抗しきれないほどの事態となっていた。「誠実」に弁護しようとした弁護団懲戒請求が乱発され、銃弾までうちこまれる。そんな状態ではどうやってまともに審理されるというのだろうか。

結局、この裁判ではなにもはっきりしないままだったのではないか。これこそ、「殺され損」なんじゃないのか?被害者にとっては。