ブログを休止している理由。

ご無沙汰しております。最近全然更新できてないっすね。当ブログのコメント欄にも「いきてんのか?」と書き込まれたぐらい放置しておりました。いやあ生きてますよ。すみませんどうも。

で、なぜ更新を休止してるかってことなんですが…。

元々私はSo-netブログをやっていて、そっちはエロネタが多かったんだけど、あるときから政治ネタを多く扱うようになっていって、思想的変遷もあり、そこだけ独立させて仕切り直ししようかなと思い、はてなで開設した次第でして。特に体系だてて勉強してきたわけでもない私が、思いつくまま言いたい放題書いてきた割りにはそこそこ読者の方もついて下さり、やりがいもあったんですが、うーん、なんというか…。

なんで書けないかっていうと、やっぱり結婚して出産したことが大きいです。それはもちろん単に忙しい、ということもあるけれども、なんというか、このブログで扱っていた差別に、現実的に直面していることによります。その重さに、今の私は耐えられない。

もちろんその重さに在日コリアンをはじめ被差別者はずっと耐えてきたし、いまも耐え続けているわけだけど、夫や息子に悪意が向けられるということに対して、私はそこを乗り越えてさらに差別を客体化する作業が今はまだできないでいる。自分の家族や友人のことだからこそ、身動きできなくなってる。公園で「オンマがねー」と言うたびになにかあるんじゃないかと神経すり減らしたりする。杞憂だと笑うこともできるけど、でもそれが私にとっての現実なんだよなあ…。

もちろんもっと時間が経ってこういった感情を乗り越えればまた動ける時がくるかもしれない。それがいつになるのか今はわからないけど…。そのときがきたらまたブログを再開したいと思っています。書きたいことはたくさんあるのになあ…といいつつ今日もちょこっと更新してしまったんですが。

あれ?RAAって沖縄にあったっけ?

もうどなたか話題にされているかもしれませんが。

橋下代表 「他国の歴史の指摘も必要」

慰霊の日に沖縄を訪れた日本維新の会の橋下代表は23日、浦添市で講演会に臨み「戦後、沖縄の女性が防波堤となり進駐軍のレイプを食い止めてくれていた」と発言しました。
23日に開かれたそうぞう主催の講演会で橋下代表は、米軍に風俗業利用をすすめた発言は「行き過ぎだった」と釈明。一方、慰安婦の問題では「日本だけを一方的に批判するのは違う」として戦後、国の指導で作られた慰安所アメリカ軍も利用していたことなどを指摘。日米地位協定の抜本的な改定を進めるために、交渉で指摘すべきだと次のように述べました。
橋下代表「(当時内務省は)特殊慰安施設協会を作って沖縄にも置いた沖縄県民の女性がその多くの女性や子供たちを守るために、まあある意味防波堤みたいな形になってそこで食い止めてくれる。(略)それを米軍が利用していたことも事実。」
橋下代表は慰安婦を正当化するつもりはないとした上で、他国の悪い歴史を指摘するくらいでないと交渉は進まないと持論を展開しました。
http://www.qab.co.jp/news/2013062444217.html

「(当時内務省は)特殊慰安施設協会を作って沖縄にも置いた」っていうけど当時沖縄はアメリカ統治下にあったから置きようがなかったと思うんだけど違うんだろうか。琉球政府もまだないしなあ…。なんかすごく「戦艦大和は沖縄に美顔クリームと月経帯を運びました」と同じかほりがする。まあ下地のグループが招いたから言いっぱなしになったのはしょうがないにしても、在沖ジャーナリズムはこの発言になんの反応もしないとしたら哀しいというか呆れるというか…。歴史修正が行われているんだからさ…ちゃんとやってくれ。

● あとRAAについてはこんなデタラメなこと書いてる人がいたなあと俺用メモ。

レイプする軍隊 〜沖縄のリアル
http://apital.asahi.com/article/takayama/2012122000002.html

ニューヨークタイムズの記事によると、1945年に日本政府がGHQの要請に従って、日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性を募集したそうです。そして、米軍慰安婦として55,000人を提供したとあります(The New York Times,October 27, 1995)

これ、リンク先のニューヨークタイムズの記事には一行もそんな話書いてないんですよね。この人、なんでこんな言及してもいないニューヨークタイムズの記事を引用しているんだろう?元の記事自体を読んでないとしか思えないんだが。読んでないのに「だそうです」じゃねえよ。完全に捏造じゃねえか。

◆ この件についてなごなぐさんが言及されていた。

沖縄にも内務省はRAAを作ったと、橋下は歴史を創造する。
http://miyagi.no-blog.jp/nago/2013/06/raa_6a01.html

私のエントリーなんかよりよほどきちんと言及されておられる。さすがだ。

「天国からのラブレター」、絶版になってたのか…。

天国からのラブレター*1、いつの間にか絶版というか取り扱い中止のような状態になってるみたいなんだな。いろいろあった本だけに、思うところがたくさんある。

この本は「それが拘置所に差し入れられた」結果、被告人が「7年で仮釈放できる」と思ってしまったりといろいろとある本だったが、いつの間にか入手不可能になってたとは…。文字通り「役割を終えた」と判断したんだろうな新潮社は。でもそうやって「なかったこと」にしていいのかねえ。

本村さんはこの件についてどう思っているんだろうか。

関連記事

■「天国からのラブレター」に「7年で仮出獄」と書いてあった?
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20070915/1189860653

■光市事件の元少年が書いた「手紙」について2
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20081013/1223858874

*1:注この本の内容については昔も今も私は賛同できないという立場をとっている。

光市事件の判決についておもうこと補足

今回の光市事件の判決をうけて、私は「これは○○(無期懲役とか)が妥当だよね」という気はさらさらない。むしろそういう風に「通ぶって」語ることは避けたい。あの事件を調べていて痛切に感じたのは「ないがしろにされる被告人」だった。あの弁護団がついて初めて被告人は自分の意思を語り始めたように思えた。

「犯罪者がないがしろにされて当然だろ」という意見もあるかもしれない。でも「被告人をないがしろにし、犯罪が行われた背景を語ることを封じる」ことは、「なぜ殺されたか」が曖昧になってしまうことでもある。何故殺されたか、その事由が曖昧になることは、殺された側の事由をも、曖昧にしていくことなのではないか。そしてそれは結果的に「被害者すらないがしろになる」ことになるのではないか。私は裁判でそこが争われないことが一番納得がいかない。

だから裁判でそこが争点になり、被告人なりの「論理」が明確になり、よって審理され、そうやって初めて本当の意味での「刑事裁判」といえるのではないだろうか。それででた「判決」ならば、私はもう、なにもいうまい。正直な感想をいえば、差し戻し控訴審まで、そのような「直球の」弁護が行われていたとは資料を読む限り、とてもそうは思えない。しかし、控訴審でようやくそれが実現したときには、すでに「世論の声」(やつを高く吊るせ)に司法が抗しきれないほどの事態となっていた。「誠実」に弁護しようとした弁護団懲戒請求が乱発され、銃弾までうちこまれる。そんな状態ではどうやってまともに審理されるというのだろうか。

結局、この裁判ではなにもはっきりしないままだったのではないか。これこそ、「殺され損」なんじゃないのか?被害者にとっては。

そうか…死刑か…

光母子殺害事件、元少年の死刑確定へ…上告棄却

山口県光市で1999年に母子2人が殺害された事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、差し戻し後の控訴審で死刑となった元会社員について、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は20日、被告の上告を棄却する判決を言い渡した。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120220-OYT1T00751.htm?from=main2

光市母子殺害事件で死刑確定へ 本村 洋さん「満足しているが、うれしいとかはない」

判決後、本村さんは会見を開き、「今回、わたしたち遺族が求める死刑という判決が下されたことに関しては、遺族としては、大変満足しています。ただ決して、うれしいとか、喜びとか、そういった感情は一切ありません。反省の情があれば、わたしは死刑(判決)は下らなかったんだと思っています。あした、福岡の方のお墓に行って、きょうの判決のことは、ゆっくりと報告しようと思っています」と語った。
一方、大月被告の弁護団は、「死刑判決は、全員一致でなければならないとする最高裁の不文律を変更するものであって、強く非難されなければならない」とコメントしている。

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00217657.html

ある程度は予想していましたが。

この事件は「少年が人を殺した」だけではなく、日本の、ある種の分水嶺となってしまったともいえる。法の分水嶺ならまだしも、日本そのものに対する分水嶺となると、刑事事件がこのような役割を担うことについて、私はとても強い違和感を持っている。

この事件は、以前からずっと追いかけていて、私のブログでも何度も言及してきたので、もう触れません。不幸な育ち方をした少年が、不幸な事件を起こした。更生の機会は与えられていたのに、いつも少年からすり抜けていってしまった。殺された母と死んでしまった子(赤ちゃんについては調べれば調べるほど死因不明としか言いようがないのではないか?という疑念が大きくなるばかりなのであえてこのような表現にしています)、殺して、死刑になる被告人らが、当事者の筈なのに、時が経てば経つほど、希薄な存在になっていく、そういう事件でもありました。この事件を利用し、のし上がっていった人、厳罰化につなげようとした側、誠実に弁護しようとしていたのに余計な攻撃にあわざるを得なかった人…。ある方の言う通り、一介の刑事事件を超えた「代理戦争」と化してました。

判決を知って、憤りよりも、ひどい失望というか、疲労感が、いまはあります。とても「死刑になった!バンザイ!」なんて喜ぶ気にはなれないし、そういう人の良識を疑います。でもmixiニュースについた関連日記や2ちゃん、twitterなんかでは、凱歌の声がそこかしこであがり、そしてこの事件を契機にのし上がった人間が首長となり、連日いけしゃーしゃーとマスメディアで「平成維新」だのとゴタクを述べてる…日本は、とてもいやな国になってきたな、というのが、いまの私の実感です。

今回の判決に、反対意見をつけた裁判官がいた、そのことが私にとって、司法の良識をみた思いがします。

「原発国民投票」なるもののうさんくささ

原発国民投票とやらが盛り上がっているようですが、アホみたいだな…という感想しかとりあえず浮かんでこない。*1「善人」な方々が声たからかに街頭にたってる姿をみると「地獄への道は云々」っつーお定まりの台詞が俺ちゃんの脳内にこだましちゃうわけです。ええ。

ここhttp://togetter.com/li/239070社民党野崎靖仁氏が述べているとおり、今年の4月にはすべての原発が稼動を停止する。引用すると

原発は今年の春で全基停止。火力発電のコンバインドサイクル化で、原発の再稼働なしでも電力需要に万全の対応。企業の実務レベルで天然ガスシフトは着実に進んでいる。政治は、この流れに棹をさせばよい。予言しておく。「天然ガスシフト」を高らかに宣言した政治勢力が、次のヘゲモニーを握るだろう。」

「現在、電力供給の約6割は火力、8%が水力、約3割が原子力。つまりメインの発電は火力。火力・水力発電所はフル稼働しているわけではないので、既存の火力・水力発電で電力供給を賄うことが可能。「原発がベース電源」という位置づけをなくせば、「原発代替エネルギー」という概念自体が不必要。」

ということなのだから、再稼動阻止と天然ガスシフトを推進するほうがよほど「現実的」といえる。国民投票運動とやらはこの動きをとめこそすれ、なんの益にもならない。はっきりいえばこの運動に乗ってる人たちは「推進派」のお先棒を担いでるといっても過言じゃない。*2ひどいのになると「負けるとわかっててもやる!」とか吹き上がってたりする。そうなると「脱原発」という「動き」をとめるためにやってるんじゃないか?と勘ぐりたくなる。てめえらのオナニーに「脱原発」を道連れにすんじゃねえよ、と苦々しい思いでいっぱいになる。こっちはね。

だいいち国民投票なんて「やったら終わり」なんだ。

裁判員制度だってそうだけど、「とりあえずやってみる」で実行された物事で「市民の側」の論理なんていつだって適用されない。為政者の都合のよい方向に持っていかれる。国民投票も実行されれば次になにが待ってるかひをみるより明らかなのに。なぜ「自分たちの都合のよい結果が訪れる」ことしか考えないんだろう?「やることに意味がある」思考に基づいて実践されたことで「よい結果」(市民側に有利な結果)を招いたことはひとつもない気がするんだけどね。私はそれがおそらく「運動の結果」よりも「どれだけ自分ががんばったか」を優先させてるからそうなると考える。天然ガスシフトだってなぜそれが優れてるのか、脱原発になるのか、勉強しないとわからない。でもそんな手間もひまも時間もかけたくない面倒くさいことはやりたくないけどなにか「自分がかかわった充実」がほしい。「みんなの力で世界を変えるんだ!(キラキラ」って「自分探し」も結構だけど、なんだそれって日々妄想幻魔大戦を戦うネトウヨさんと同じじゃないですかー……。

「歴史は繰り返す」じゃなくて「歴史は繰り返させられる」。それを実感する。

*1:なんつーか怖いのは「国民投票」と「住民投票」の区別がついてなさそうな感じとかだな…。

*2:推進してる連中を見るとどっかの代理店がいっちょかみしてそうなメンツなんだよねー…。うさんくさいことこの上ない。

あけましておめでとうございます。

超いまさらですが…。

ブログは絶賛放置プレイですみません。twitterはいろいろ書いているんですが、ちょっと長い文章を書く時間が取れない、というのもあります。俺は元気です。

昨年は俺の敵花岡教授がなくなったり、このブログ的には大きな出来事がいくつもあったんですが、やはりはじめての子供の世話におわれ、まったく書く余裕がなくなってしまいました。楽しみにしている人(いたらの話ですが)には申し訳ない。

月イチペースぐらいでまた書いていけたらなあと思ってます。今年もどうぞよろしく。