天翔る柳美里センセ「自分大好き強化月間」

柳美里の作品はどうにも好きになれない。

それは作品の中へ抑えきれない自我がいざあふれんとこちらに迫ってくるような、パセティックとも違う、妙な居直りが感じられるような気がするからだ。そしてその傾向は近年とみに強くなっているように思える。

それにしても本の表紙でフルヌードかよ。

柳美里さんが新著表紙でフルヌード

 人気作家柳美里さん(39)が、30日発売の新著「柳美里不幸全記録」(新潮社)の表紙で、フルヌードを披露している。写真集以外で女性作家がヌードになるのは異例。写真は篠山紀信氏が撮影した。

 柳さんは同書の後書きに、タイトルも表紙も、信頼する編集者のアイデアだとし、「同書を真剣に考えた上での提案だったので同意しました」と記している。

 同書は、柳さんが月刊「新潮45」に、02年から5年半にわたり連載した「交換日記」をまとめたもの。新聞連載の打ち切り騒動や、韓国人女性をモデルにした処女作「石に泳ぐ魚」が最高裁から出版差し止め命令を受けたこと、子供に手を上げてしまう育児、さらに15歳年下の男性との共同生活などが、赤裸々に書かれている。同社編集部は「表紙は、著者自身、それも、著者のありのままの姿以外にない」と考えたと説明。柳さんも本を売るためのパフォーマンスではなく「作品の性格からヌードになった」としている。

 柳さんは、篠山氏とは15年前から、約20回ほどカメラマンと被写体の関係にあった。後書きには「篠山紀信の構えるカメラの前に立つと、死を強く意識します」。「カメラとわたしは、まばたきするたびに、生きることと死ぬこと、幸と不幸が入れ替わる気がします。篠山さんとわたしは、撮影という行為を通して、お互いの生き死にに触れ合っているのだと思う」と紹介している。39歳の人生を写しだす表紙の反響が注目される。

2007年11月20日8時14分
日刊スポーツ
http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20071120-285403.html

同様な記事はスポーツ報知http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071120-OHT1T00035.htmにもアリ

書店で平積みされていれば否応なく目に入るわけでこれは一種の暴力だな。作家ヌードといえば悪名高い「田中康夫」と「林真理子」(セミだけど)の両巨頭が君臨しているわけだが、ここにもう一人乱入で、三すくみですか。イヤハヤ勘弁してくださいよ。こういう場合、自分の裸が見るべき価値があるものかどうかという客観性がまずくるべきだと思うのだが、それよりも「己の生きた証として見せたい」等々の「自分の人生その他は見せるべき価値のあるものだ」というような妙な肯定が先に来るらしい。見たくないと思う人間がいることを想定してないのだろうか。その点まだ内田春菊のほうがいいように思える。確か彼女も著作の中でヌードを披露していたが、それは表紙ではなくて中を開いてはじめてわかるものだった。なんというか、柳美里の自己顕示欲肯定力には恐れ入るが、それだけ不安定なのかもしれない。絶えず自我を発露し、人前に己をさらし、世上の認知を得ていないと自己肯定感が生まれないのだろうか。まったくそれにつき合わされなきゃいけない義理なんてこっちにはねえよ、と意地悪な目つきをしてしまう。しかも純文学として昇華しているのならまだしも、単なるお前のつらい人生とやらの垂れ流しには、興味のない人間からみりゃどうでもいい話なんです。しかも今回は垂れ流しにヌードまでつけてくれるなんざ有難いことこの上ない。とうちゃん嬉しくって涙でてくらあ。そんなに「素の自分」だの「ありのままの私を見せたい」だのとゴタクを抜かすなら、その辺の道端ですっぽんぽんになってマタグラご開帳してりゃいいじゃねえか。

石に泳ぐ魚」裁判でもそうだったけれども、芸術至上主義は結構だが(女太宰?笑わせるな)自己の認識をそのまま他にも当てはめるというのはどういう神経しているんだろうね。この自分が望むこと/思うことを提供することは他人よそ様その他大勢も望んでいるに違いないと思える臆面のなさ、自己の価値観をイッパンタイシュウへも広大無辺に適用し、一般化可能だと思っているそのあたりが傲岸不遜だなとおれっちなんかは思ってしまうわけです。まあそれがゲージュツ家というのなら、おめでとうございますとしか言いようがないのですけれども。

あんたの裸に値打ちを見出すのは、あんたの男(も嫌かもしれないけど)とあんただけ。見せる「意味」の前に「価値」があるのかよく考えろとは言いたいが、おゲージツ活動の一環ならば仕方がないとムチモーマイな大衆の一人としてはため息をつくしかないのかも。