思い出(トラウマ)の作家ヌードあれこれ

今までヌードになった作家、文豪で私の知っているのは、三島由紀夫鈴木いづみ山田詠美林真理子田中康夫内田春菊。このうち見る価値があるのは、三島由紀夫鈴木いづみだけ。内田春菊はヌードを披露した当時すでにその容姿は劣化が始まっており商品価値は下落。山田詠美11PMで緊縛ヌードを披露したり、「徳川セックス禁止令」におけるサンドラ・ジュリアンなみの大自然ヌードをそのテの雑誌上でお披露目しているが、それはあくまでも作家になる前の話なので除外。(いれたとしても商品としては…。ビニ本レベルなんだよなあ)あとは「魔よけ」です。(当然柳美里も「魔よけ」に分類される。位置は「強欲」か?林真理子は「色欲」、田中康夫は「憤怒」と七つの大罪風に)私は田中康夫林真理子山田詠美の画像をダウンロードし、PCに保存しておりましたがまもなく壊れてしまいました。その話を(ダウンロードした件は伏せて)当時潜入してた某宗教団体で話すと「それはね、私たちの話を聞かせまいと悪魔があなたにそうしたのよ」といわれました。参議院議員氏は悪魔なのか。それはそれでひどい話だ。話したのは誰だ。それはさておき。

ディオニュソス的な「薔薇刑」”三島由紀夫は、あの鍛えぬいた体を素材にし、写真家とのコラボレーションのなかでひとつの作品として練り上げた上で撮っている。撮り方自体も面白いし、また自身もいかに見せるかかなり工夫している。どこかの作家のように己の肉体を裸にした時点で値打ちがあるなんてことは思ってないようだ。まあ「ありのままの私」を見せることに意味があるなんてことは思っていないからこそのボディビルディングなんだろうけど。

鈴木いづみはヌードモデル、ピンク女優出身だから、というのもあるが、いまみてもその巨乳ぶりには驚かされる。グラビアモデルなみの体をしている上に、荒木経惟もどっかり腰をすえてカメラを構えているため、「作品」としてみるに値するものに仕上がっている。今資料が手元にないためうろ覚えを欠いてみるが確か放尿シーンも撮っているように思った。彼女は打ち合わせの際、荒木に“こういうものが撮りたい”とコラージュ作品を持ってきたそうだ。この時点で取り組み方が違うので「魔よけ」と一緒にしては失礼かもしれない。

内田春菊は「やられ女の言い分」かなんかでヌードを披露してたが、狙っただらしなさがうまく着地せず作家的自己満足へ難着陸した感じ。見た後になんとなく両親のヌード画像を見たときのような「見てはいけないものを見てしまった」感が漂う気もする。貧しいエロというのは、今回の柳美里にも通底するものがあるが、そういう意味では先駆者かもしれない。現在の春菊はこの頃よりも容姿ははるかに磨耗したが、描くものはそれよりもっとずっと劣化してしまったので、あんまり見た目の悲しさに注目されないからかえってよかったかもしれない。まあでも春菊はまだいいと思うぜ。「栄光の若かりし頃」があるだけ。林真理子なんざ「若かりし栄光の時代」でああいう状況になってしまったわけでして。そういう意味では同情を禁じえない。

それにしてもなぜ作家は裸になりたがるのか。

自らの血肉の結露たる「文学」が商売として成り立つということからイコール自分の身体をも商売として通用すると思うのか。はたまたあくなき業としての「自己との対話」の一環なのか、それとも万能感からくる自己肥大の成れの果てか。てめえの書いたものが芸術であって、てめえは芸術ではない。そこのところがわかってないと地雷系ヌードのご開帳となるのだろうか。作者のオナニーのような芸術的小説なら読みたいが、小説家のオナニーのような芸術的ヌードはごめんこうむります。


※画像探したけどすぐにはみつからなんだ。後で見つけられたら貼る予定。