呉智英の妄言とノストラダムス解読法!

↓こんなのを朝刊紙面一面に掲載するんじゃないよ。朝から嫌な気分にさせるなまったく。

【私の正名論】評論家・呉智英 言葉の誤読による糾弾

 良い目的のためなら誤った知識を流し無知を煽(あお)ることが許されるのか。古来からあるテーマだが、近代国家では許されることではない。なぜならば、国家意志は国民の総意によって決定されるからである。

 仮に「良い決定」がされたとしてもそれが「無知」の上に成立しているなら、いずれツケが回ってくる。そのうち、無知は正義だ、ということになりかねない。

 六月四日付朝日新聞の社説を読んでそう思った。「アイヌ民族を日本の先住民族として認めるべきだ」。今国会の決議を支持して、同社説はこう書き出す。趣旨にはむろん私も賛成だ。しかし、この社説の中におかしな記述がある。

 「明治以来、日本政府はアイヌ民族を『旧土人』と呼び」「この差別的な呼び方そのものが、先住の事実を認めたに等しい」

 変な記述だ。差別的な呼称が、どうして先住の事実を認めたことになるのか。先住民の権利は差別の上に成り立つのだろうか。

 この社説は「土人」は差別語だという謬説(びゅうせつ)に基づいている。「土人」とは「土着の人」「土地の人」という意味である。一九七〇年代に広がった、差別語狩りの愚行以前はごく普通に使われていた。

 江戸時代の方言研究書『物類称呼』には「虹のことを、東国の小児は“のじ”と言い、尾張土人は“鍋づる”と言う」とある。尾張(名古屋)は徳川御三家の一つだ。そこに住む人を土人(土地の人)として別に不思議はない。

 昭和期の朝日新聞にもこんな記事がある。一九三八年十二月四日付だ。「〔山形県では〕こういう現象を土民は年に一度は体験する」(錦三郎『飛行蜘蛛』より)

 戦後でもそうだ。一九六〇年代まで広く使われていた名英和辞書『新簡約英和辞典』(研究社)はIndianを「アメリ土人」としている。アメリカ土着の人という意味であることは明らかだ。

 「土人」が「土まみれの野蛮人」の意味に拡大解釈され、ほんの三十年程前からその意味にのみ解釈されるようになった。これは前述の差別語狩りによる。「土人」を差別語と“認定”し社会から抹殺したために本来の意味が分からなくなったのである。

 明治時代に作られた「北海道旧土人保護法」が差別的な名称の法律だとして国会の議論の的になったのは一九八六年のことだ。この法律は保護の名目でアイヌ人の権利を制限する差別的な内容の法律である。内容が差別的なのであって、名称が差別的なのではない。北海道に「旧(もと)から住んでいる土地の人」という名称のどこが差別なのか。少なくとも明治時代には「土人」は本来の用法で使われていたはずである。こんな簡単な事実も知らず、中曽根康弘首相(当時)を初め閣僚も国会議員も左右を問わず、差別的な名称には驚いたと、それこそ驚くべき発言をした。

 言葉がわからず、従って歴史がわからず、従って文化がわからない。困った良識家ばかりだ。

 必ずや名を正さんか。孔子の言(げん)だ。「名」は言葉。言葉が正しくないと社会も文化も混乱する。迂遠(うえん)なようでもまず名を正す(正名)のがすべての基本である。(くれ ともふさ)

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080611/acd0806110259001-n1.htm

なんだか呉も劣化しているというか、自説の維持には手段を選ばずというか…。

内容が差別的なのであって、名称が差別的なのではない。

新しい視点だな。内容が差別的でも名称が差別的でないから名称を問題視するな、ということか?劣化したことをいうようになったな。内容が差別的なら名称もそれに引きずられやがて差別的な意味合いをもってくる。人類館事件が起きたのは旧土人法が施行されてからわずか4年後のことである。そのことを考えれば旧土人法が施行される前から、アイヌ土人という言葉には差別的なニュアンスが含まれていたことは想像に難くない。

少なくとも明治時代には「土人」は本来の用法で使われていたはずである。

人類館事件のことを知っていてこんなことをいってるのならば相当な鉄面皮といわざるを得ないのだが、そういうと「え?土人という名称について語っているだけでアイヌとはまったく関係ありませんが?」などといってくるのだろうけれど、それならばアイヌを引き合いに出す必要はない。切り離して語りゃあいいだろう。あえて混同するような文章を書いておいてそんな言い訳するのならば欺瞞の一言。アイヌの差別に語らず言葉狩りだけを取り上げるなんて片腹痛し、である。

このテの「元の意味は差別的でないから問題ない言葉狩りするな」という意見は確かに一理あるだろう。だが一理はあくまでも一理。支那という言葉もレイシズムを伴うものとなった以上、そして相手国から使用するなといわれている以上、使うべきではない。土人もそうである。現に今はレイシズム的な意味合いでしか使われていないではないか。以前はどうであれ。元の言葉の意味がどうであれ、差別的に使われていた結果言葉狩りを呼んだとしたら起こるのは差別糾弾団体ではなく、レイシストどもへではないか。呉のいうような論理は「彼ら」に免罪符を与えるに過ぎない。劣化したものだ。封建主義者というよりも単なるニッポソ人だろうな既に。

……等々と某所で書いたところ、匿名希望さんが意外な解読法をコメントしてくれた。

>良い目的のためなら誤った知識を流し無知を煽(あお)ることが許されるのか。古来からあるテーマだが、近代国家では許されることではない。なぜならば、

>国家意志は国民の総意によって

>決定されるからである。
> 仮に「良い決定」がされたとしてもそれが「無知」の上に成立しているなら、いずれツケが回ってくる。そのうち、無知は正義だ、ということになりかねない。

あ、ああー、笠原和夫氏が憲法第一条を笑い飛ばしていたことに共感しているのかと思いましたよ。

逆転の発想だ!なるほど、呉智英氏はこういうことがいいたかったざますね。産経の原稿検閲から逃れるためには記事文中にちりばめ読者に解読させる方法(ノストラダムス!)を取らざるを得なかったのだろう。呉氏の意思を汲み取るモノのよき態度とは、文頭のこの文章のみ胸に収め、あとのアイヌだの土人だのという目くらましは華麗にスルーする。これが正しき読み方だったのだ。劣化とかいってすまなかった呉センセイ!これから産経紙面の記事を読むときはノストラダムス解読法*1でいくしかないNe!

*1:ノストラダムスの予言を解読した!と主張する人々はしばしば自説に都合のよい部分のみ抜書きし後は省みないし整合性も気にしない、ということをする