光市事件の元少年が書いた「手紙」について2
地下生活者の手遊びさんからTBをいただいた。どうも拙ブログの「光市事件の元少年が書いた手紙について」というエントリーを引用いただいたらしい。ありがたいことである。
だがあれはかなり備忘録的なもので自分の中でまとめきれていなかったこともあり、ちょっと補足をしたい。そのあと別のところ*1でこの件について自分なりにまとめたものを改めてこちらにもアップする。参考になれば幸いである。
光市事件の報道は数多くされたが、その中でもかなりの心ある人の神経を逆撫でしたと思われるのが、少年が書いた「手紙」である。私も一読し、あまりに酷い内容に吐き気すら覚えた。だが、少し考えると気になる点も湧き上がってきた。まずどういう状況下で書かれたものか、書いた相手とはどれほど親しかったのか、またこんな不謹慎な内容の手紙を検閲した少年院側はどのような対応をとったのか、など。
少年の手紙について検討する前にいくつか弁護団の更新意見書より抜粋したい。
まず被告人の精神発達度合いについて。あえて該当箇所を全文引用する。
B教授の精神鑑定書(弁10)によると、被告人が母親の自殺の時点での精神状態について、
精神的未発達であったことを以下のように指摘している。
「母親の自殺の時点でも精神的未発達は、病的な家庭のために未熟であったが、とりわけ母親の死亡とともに、人格的な成長が停滞しゆがんでいったと思われる。
今回の鑑定にあたり、新たに心理テストを行うことができなかったが、少年事件の社会記録にある、TAT(絵画統覚検査)の結果によると、「発達レベルは、4、5歳と評価できる」と書かれている。4、5歳は別としても、極めて未熟である。とりわけ母親の死とともに現実の人間関係に立ち向かっていこうとする意欲は乏しくなり、おもしろくなかったり淋しかったり、気分が満たされないときは、容易に母親との性愛的イメージに戻っていっている。あえていうなら、母親の自殺を外傷体験として12歳(12年と191日)のときの精神レベルに歩ぶみしているかのようである。」(弁10・13頁)1 少年のTAT(絵画統覚検査)結果の解釈」では、
「家庭に対する疎外感、拒否される不安感が強く葛藤を感じやすい。家庭状況が、自己無価値感や傷つきやすい幼児的自尊心(自己愛)(※C鑑定人註:自尊心は社会化された自己愛)の源泉となっているようである。対人関係では葛藤が少ないが、見放されるのではないかという懸念を持つ。異性関係は未熟である。男女の接近した関係を、『母と自分と、それに介入する父』(エディプス状況)といった枠組みで認知してしまいがちで、そのため生起した依存感情や憎悪と性愛的感情の区別がつかなくなり、混乱した行動に至りがちであろう。男性としての自分に自信がもてない。これは肯定的な父性経験の不足が影響しているようである。反動的に、競争やヒロイックな行動に向いがちだが、常に挫折の予感を抱えている。課題の解決に当たっては、現実吟味を欠いた願望充足的期待を抱きがちなため、結局は失敗してしまう。自尊心(自己愛)が傷つきやすいため、その防衛のために責任を他者に転嫁したり、圧力をかけてくる対象に攻撃する。
また他者に対する冷情傾向、善悪二分法傾向、罪悪感の乏しさから考え、発達レベルは4−5歳程度と評価できる。空想世界で生き生きした構想力はあるが、感情的ショックでその場を収めることができず、引きずりすぎてしまう。感情統制(コントロール)が悪く、情緒的な退行を生じやすい。このような過程が進行すると、原始的迫害不安がでてくるようであり、TATにおける物語は強い自己否定や破滅に向う。これは現実場面でも生じると考えられる。」(弁9・16頁)と指摘されている。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kohshin3-1-1.htm
よくマスコミ等で報道された被告人の「知能程度が4.5歳」というのは誤りであることがわかる。あくまでも発達レベルが4.5歳であり、それも今回の更新意見書では否定され、「4、5歳は別としても、極めて未熟である。(中略)12歳(12年と191日)のときの精神レベルに歩ぶみしているかのようである。」と記されている。ここに注目したい。
手紙の背景について、以下の安田弁護士の談を引用する。
控訴審でも、ともかく死刑にしなければならないというので検察がやったのが、彼の例の手紙です。ひどい内容の手紙であることは確かです。しかし、それは隣の房にいた子どもが、小説家になりたいという希望を持っていて、彼からすれば、死刑を求刑されるような事件をやった被告人は関心の的であったわけです。文通の相手は被告人を偽悪的にもてはやします。そして、そのもてはやし、挑発といってもいいのですが、それに乗せられて書いたのが例の手紙であったわけです。しかし、そういう個人的なてがみのやりとりが、そっくりそのまま検察の手に渡って、検察が証拠請求してきたんです。検察官は、その手紙を盾にとり、裁判官と弁護士だけでなく被害者や被害者遺族も被告人に愚弄されている、絶対に許すわけにいかないと声高に主張を続けたのです。
私からすると、どうしてあの手紙が検察官の手に入ったかというだけはでなく、どうしてあんな手紙を発信することができたのか、ということが不思議でならないわけです。普通、手紙というのは拘置所の職員が全部検閲しますから。彼らは非常に教育者的な気概を持っているというか、そういう役割を自負していますから、変なものはチェックして、口を挟んでくるんです。ときには郵送を禁止したり、ここを削除しろ、書き直せと平気で干渉してくる。普通だったらあんな手紙を出せるはずがないんです。被告人に対して、「何を書いているんだ」と、叱るのが当たり前なわけです。
ところが、それが一切ないまま手紙が通って、今度は堂々と法廷に証拠として出てきて、これほどひどい奴だという証拠になってくる。信書そのものが犯罪を構成しているわけではないのに、刑事事件の証拠として採用されてしまうんですね。通信の秘密、通信の自由はどうなっているんでしょうね。
それでも、控訴審は、1審の無期懲役を維持しました。控訴審は事実関係については1審と同じく見落としをしてしまいました。あの手紙については、とんでもない手紙だけれども、しかし挑発されて書かされた面がある、彼は更生の可能性があると判示するわけです。これも、死刑の量刑基準からすれば当然のことでした。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/hikari3.htm
この安田弁護士の疑問はもっともであるが、明確な証拠がない以上、断定は出来ない。あくまでも推測として成り立つ話である。ゆえに、私としてはこの発言は参考意見程度にとどめておきたい。ただ以下は事実として判断してよいと思う。
・手紙をやりとりしていたのは友人ではなく、隣の房の収監囚だったこと
・なぜやりとりするようになったのか、その経緯はよくわかっていないこと
・相手側がなんと書いていたのか、それらの情報が一切でないこと
また手紙には以下のような続きがあるのだが、
「ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。
ありゃーちょうしづいているとボクもね、思うとりました。
でも記事にして、ちーとでも気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし。
(紳もカンシャク起こさず見守ってほしい。すまん思うてる。
心遣いは今のボクにはかえってつらいやんか)」
(注:紳とは手紙の相手。かっこ内は報道の際に省略されている部分)
この「()」でくくられた部分が報道されることは全くといっていいほどない。このことからもマスメディアが相当「編集」していることが明らかである。
これはこの件について語られた今枝弁護士のコメントを読んでもよくわかる。(下記引用文については原文ママ/強調は筆者。)
被告人の未成熟性の主張について
家裁の記録は、「発達レベルは4、5歳程度」という部分だけではなく、随所において、被告人の精神的未熟性と、退行的心理状態を認定しています。
家裁記録には、鑑別所技官の意見と、家裁調査官の意見の2通りあり、それぞれ複数の担当者が共同調査を行っていますが、いずれの意見においても、被告人の未熟性が認定されています。
これに加え、あらたに鑑定を依頼した心理学者、精神科医のいずれも、その分析方法は異なるものの、結論においては被告人の精神的未熟性を認定します。父親の虐待から守りあつ母親と母子未分離の精神状態にあるなかで母親の自殺死体を目撃したことがトラウマとなり、発達は停止し、「ゲームなど虚構の世界に逃避し、その後退行状態に逃避する。その2重構造は容易に崩せない」等と評されています。
これまでの刑事記録における被告人の供述内容にも随所に上記の評価を得心させるような発言があり、弁護人が接見した際の被告人の言動からも上記の評価は納得できるものであり、これらを総合して、主張の根拠としました。「不謹慎な手紙」の、「7年でひょっこり地上に芽を出す」という表現から、「普通の人がおよそ知らないような法制度まで熟知しており、ずる賢い上に能力も高いはず」と批判されますが、被告人によれば、本村さんの「天国からのラブレター」に、「少年であれば無期懲役になっても7年で釈放されうる」という記述で知ったそうです。仮にこれが事実ならば、遺族の著述で加害者が知識を得、それが不謹慎な手紙に記載され、しかも相手と検察官により暴露された、という不幸な連鎖ではないでしょうか。
この言い分については、本村さんを傷つける可能性があるため、これまで伏せていました。
しかし次回の被告人質問で出てしまうため、これが「枝葉」として拡張されすぎることを回避するため、被告人のためにあえて書きました。投稿 今枝仁 | 2007年9月 8日 (土) 09時52分
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_288f.html
2審の段階で取りざたされた、被告人の「不謹慎な手紙」が今なおマスコミで取り上げられ、被告人が反省していないという根拠とされます。
これについては、旧2審判決で、「しかしながら、被告人の上記手紙の内容には、相手から来たふざけた内容の手紙に触発されて、殊更に不謹慎な表現がとられている面もみられる(少年記録中では、被告人が、「外面では自己主張をして顕示欲を満たそうと虚勢を張る」とも指摘されている)とともに、本件各犯行に対する被告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり」とし、被告人なりに一応の反省の情が芽生えるに至っていると評価しています。
つまり、手紙の一部ですから、全体の中の流れ・文脈や、その手紙を書く動機となった相手からの手紙の内容等を総合して評価すべきであり、枝葉を取り上げてのみ評価すべきではないとの価値判断をされたものと思います。
確かに不謹慎な内容の手紙であることは否定できませんし、上記判決の評価に加えこれを擁護する説得力ある論拠もなかなか現時点で見あたりませんが、判決でこのように評価されていることを踏まえ、報道されるのが正しいあり方ではないでしょうか。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_502b.html
それから、弁護団は、「被告人の発達レベルが4、5歳程度」という主張はしていません。
これは、「家裁の記録にはそう書かれている」、という指摘です。弁護団ではなく家裁調査官が言ったことです。弁護団としては、「4、5歳というのはあまりに言い過ぎだが、状況的に見て、事件当時は11〜12歳レベルの発達だったのではないか」と主張していいます。
逮捕後の被告人の写真を見ても、中学1〜2年生かと思うような幼稚な風貌です。
皆さんは、非行を繰り返した挙げ句の凶悪少年をイメージしておられるでしょう。私もこの事件に入るまではそうでした。
そうすると、これを前提に類推すると、「不謹慎な手紙」を書いたころの発達レベルは、14〜15歳前後レベルという推測になるでしょうか。
そうすると、手紙の内容と発達レベルがおおむね合致してくるのではないでしょうか。「4〜5歳レベルであの手紙を書いたというのか」という批判が論理的でないことは理解頂けましたでしょうか。
なお、精神鑑定医は、「被告人は、父親の暴力から互いを守り合う母親との母子の精神的分離が未熟だった上、13歳のときに母親が自殺しそれを目撃したショック等で発達が停滞していた」とし,通常の18歳の少年と同等の責任を問うのは厳しい、と鑑定しています。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_0520.html
不謹慎な手紙について
これは私は、手紙の相手が酷いと思います。仮に相手をA君とします。
A君は、検察に「こういう手紙をもらっている」として被告人の手紙を提出しながら、並行して、被告人に手紙を書き、その中で被告人を挑発し、誘惑してことさら不謹慎な手紙を書かせています。
「天国からのラブレター」を差入れ、「こんなん欠いてるけど、どう思う?」と感想を求めたのもA君です。ほとんど「おとり捜査」です。
一方被告人は、自分の認識している事実とは異なる事実に反省を求められ、親からも見捨てられ、親しく話や手紙ができるのはH君でした。A君とは拘置所の部屋が隣りだっただけの関係なのに、A君を「親友」と呼びます。
A君には分かってもらいたい、A君に離れていってほしくない、そういう寂しい状態の被告人が、A君が手紙の中でふざけた手紙や本村さんへの非難に迎合して、書いたものに過ぎません。少年記録にも、「その場ごとの期待に合わせて振る舞う順応性を見せる。」「周囲の顔色をうかがいながら行動することが習性になっている。」等と評価されています。
それにしてもあまりに不謹慎すぎるとは思いますが、そういう背景を前提に評価して頂きたいと思います。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4ddf.html
被告人は、「少年は7年で仮釈放される」という知識は、A君が差し入れてくれた本村さんの「天国からのラブレター」の末尾にそう記載されていることで知った、と言います。
しかし、現在出版されている「天国からのラブレター」で、そこは削除されています。
なぜ削除されたのか、理由は分かりません。
被告人が持っていた「天国からのラブレター」を見ると、平成12年3月発行で問題の手紙より前であり、末尾に、少年は無期懲役になっても7年で仮出獄する、と記載がありました。
もちろん、本村さんが悪いわけではありません。
ただ、こういう経緯を前提にすると、被告人がそういう知識をもっていたからと言って、「法制度まで詳しく知っていたのだから、悪質」と言うのはいかがでしょうか。
もっとも、被告人は、本村さんの書籍で知ったとしても、それをああいうかたちで手紙に書いた不謹慎さは、今反省しています。「犬がある日かわいい犬と出会ってやっちゃった。これは罪でしょうか?」について
これは、弥生さんに対する本件犯行についてふざけて書いたものかのように言われています。
しかし、被告人によれば、そういう意図ではなく、この手紙を書いた経緯や動機からは「犬」というとこに意味があり、自分が当時、人間としてではなく犬畜生として扱われていた不満を表したものでありそれに尽きると述べます。
捜査段階で、検察官は、被告人に、「罪を受け入れ、生きて償いなさい。」と諭しました。そのことは検察官調書に記載があります。
しかし、「生きて償おう」と考えた被告人が検察官の言うとおりのストーリーの調書作成に応じた(「罪を受け入れ生きて償え」という言葉とともに、「罪を受け入れなければ死刑を求刑する」という威圧を感じていた)被告人に対し、死刑を求刑するという矛盾、被告人の認識と異なる事実関係を前提にすすむ裁判、こういう状況で孤立した被告人が、「僕は人間ではなく犬畜生として裁かれている。」と卑屈に考えたとしても、不自然ではありません。
たしかに、読み手にとってはいろいろと邪推の余地がある不謹慎な手紙かもしれませんが、この手紙は特定の友人に送られ公表を予定していなかったものですし、読み手がどう受け取るかというよりは被告人がどういう認識や動機で書いたかどうかで不謹慎さは評価されるべきではないでしょうか。
被告人が述べる理由でも不謹慎には違いありません。しかし、一般に理解されているような動機ではない可能性も吟味された上で評価すべきと思います。A君は検察庁に手紙を提出するのと並行して、被告人にふざけた手紙を書いたり面会してことさらに被告人を煽り、またその手紙を検察庁に提出することを繰り返していた、この経緯だけでも、被告人の不謹慎さへの認識がある程度改められるべきではないでしょうか。
さらに、手紙は伝聞証拠ですから、簡単に証拠として裁判所に採用されることはありません。
当然、2審の弁護人は、これらの手紙の証拠採用に抵抗しています。
しかし、最終的には、被告人が裁判所からの質問に答え、「手紙を提出してもらっていいです。」と述べたことで、証拠採用されています。
被告人は、友達の気を引くために非公開を前提に書いた手紙ながら、そういう手紙を書いたのは事実であり、正々堂々いさぎよく裁判所に提出されることを受け入れようとし、受け入れました。
手紙の提出を阻止しようとしていたら、手紙の内容でここまで責められることもなかったでしょう。
死刑の求刑で命を危険にさらされている中、このような手紙の提出を甘んじて受容した行為、そこに一定の誠実さを看取るのはあまりに甘すぎるでしょうか。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_6056.html
よくもわるくもこの「手紙」のインパクトは凄い。非常に失礼かつ人非人を承知であえて述べるが、オセロゲームのほとんど黒だった盤面を全部シロにひっくり返すような意味合いがある。検察はなんとしても手にしたかっただろうし、そして現在もある種の「象徴」としてこの「手紙」がとりあつかわれているのではないだろうか。本村さんのだした「天国からのラブレター」の内容が滅多にマスコミに取り上げられないのとは対照的である。(だが意図的に抜書きされて紹介される、という意味では両極にある存在といえるかもしれない。)