帰化って「日本人」が安易に口にしていいものなんだろうか2(またはなぜ私は心配するのをやめて「ここ」に復帰しようと思ったか)

外国人地方参政権問題に絡んで安易に「帰化すればいい」と「われわれ」が口にしていいかどうか。その疑問については前エントリーで触れた。(ちなみに以前から何度か言及しているので、この問題に対する私のスタンスについてはいちいち書く必要がないだろうとあえて詳らかにはしなかった。このブログは基本的に不親切をモットーにしている。ざまあみろ。知りたきゃ過去ログ読んでくれ)やや書き足りない気もするし、俺ちゃんの帰還理由についても書くべきだろうと思うので、その辺も含めながらもう少し続ける。

いきなり前言を翻すようだが、前回のエントリーでつまびらかにしなかった理由は、以前から言及しているというのも確かにあるんだけれども、むしろそこだけで議論を終わらせたくなかったという「意思」が一番大きいかもしれない。外国人に地方参政権を与えるべきか否かという部分に拘泥してしまうと、もっと大きな本質的なところをえぐり出すことができなくなってしまう恐れがあったからだ。在日外国人の「帰化」とそれに伴い求められる「同化」「日本人化」という問題である。

あるところで「外国人地方参政権問題を語る際に“帰化すればいい”と気軽に日本人がいっていいことじゃないと私は思う」と書いたら「帰化すら許さず外国人排斥運動をするよりマシだ」と返された。そこで私は「汚水で汚れるか、泥水で汚れるかを比べることに何の意味があるのかわからない」とレスしたところ「帰化が汚れという発想はなかった」とトンデモ回答されてしまった。当然の事ながら私の言葉の意味は「気軽に帰化すればいいということ」と「帰化すら許さず外国人排斥運動をすること」を「意識」においては五十歩百歩と捉えていることをたとえただけなんだが、そもそも単なる事務手続きである「帰化」に「綺麗」も「汚い」もあるわけがない。「1」ってどんなにおいか?と聞かれて即答できる人はあまりいないわけで、結局のところその無機質な「単なる事務手続き」に過剰な意味と付加を与えているのは(私も含めた)「われわれ」であることは、いうまでもない。それはこういうブックマークコメントからもうかがえる。

参政権よこせってそんなに簡単に「骨埋める決心のない人」が口にしていい言葉なのかな

それにしてもすごいな。この人は自分が地方参政権を行使する際に「骨をうずめる覚悟」で行っているんでしょうか。市長選とか市議会選挙とかで。地方参政権でコレなんだから、(違憲判決が出ているけれどもあえてだします)「国政参政権」なんてことになったら、なにを「埋め」ればいいんだろう?一族郎党人柱か?つまり私が批判しているのはこういう過剰な「同化」「日本人化」(いうまでもなくこのあたりは「皇国臣民化」と地下水脈でつながっているような気がしてならない)を促す「文脈」であり、「共通無意識」である。(ラモスがヤマトダマシイなんてことをやたら持ち出すときになにか言葉以上の悲壮な意味合いを感じ取ってしまうのも、この辺の「強制力」を伺えるから——もちろん本人は否定するだろうけど——かもしれない)

帰化なんてたいしたことじゃない」という人がいる。大変な労力を伴う帰化申請の簡略化を訴えている上でそんなことをいうならまだマシだけれども、そうでないのなら、実情を知らない無神経さとしかいいようがない。また私は「国籍なんかどうでもいいじゃないか」といって帰化を促す意見に(基本的には)与しない。「国籍なんかどうでもいいじゃないか」と個人が思うのは自由だが、それはあくまでもアンタの考えであって、それを「日本人」が「在日外国人」に押し付けることに意味を、もう少し考えるべきだと思う。日の丸君が代なんてたいしたことないじゃないか、どうでもいいじゃないか、といって掲揚や斉唱を(結果的に)強要するのと、どこが違うんだろう?*1また産經新聞のようにたとえ帰化しても「許して」くれない人たちもいるとなるともうなにをかいわんや、である。*2

こうした現在の状況をみると私には「帰化」が「帰依」(悪く言えば「隷属」)につながっているとしか思えない。「日本国籍」を取得することと「日本人」になることと「日本国・日本政府」へ隷属することは全く違うのだけれども、「なぜか」イコールで結びつけられると思っている人たちがいる。そういう人たちがある一定数以上いて、無意識的/有意識的問わず、「日本」に対する絶対的な「帰依」を、「在日外国人」が「帰化」するにあたって(多かれ少なかれ)求められる限り、私は安易に「帰化しろ」とはいえない。それは「日本が好きだから日本で暮らしたい」とは違う次元の話である。そんな「強制」がなく、タダの選択肢のひとつ——ある方の言葉を借りれば単なる「市民権」としての——という「本来」の意味合いの元で「帰化」という言葉が使える日が来たのならば、私も抵抗がなく「帰化したら?」といえるかもしれない。そんな日がくることを祈念してやまないが、しかしくるんかねえ。可能性ではなく蓋然性として考えた場合、私からでるのはタメ息ばかりである。

以前ペマ・ギャルホ氏だったか石平氏だったかが、自身が帰化した際に「思想チェック」なるものが全くなかったと憤っていたことを私は忘れない。「これなら反日思想家でも日本人になってしまう、だから帰化申請の審査には思想チェックを設けろ」などと狂人のたわごとにしか思えないことをいっていたが*3、そういう寝言を支持する人たちもネット界隈を見る限り、少なくない(ように見える)。この間さんざ大暴れし「日本人」の面汚しを見事なまでに買って出てくれた「在特会」「西村修平率いる西村艦隊」なんかがその代表だが、もちろん彼らは最も問題だけれども、より大きな問題を考える際、私にはある光景が浮かぶのだ。今年の8/15、九段下でドロンパや西村らがアジ演説をぶっていた一幕。そこに集まり彼らを支持する人たちが盛んにふっていた日の丸。そして遠巻きに眺める私たちの後ろで、通りすがりと思しき若い男が「そうだ!そうだ!」と賛同の意を大声で叫んだ後、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎていったこと。私の傍らにいたドイツ人の友達はひどくそのことに怖がっていた。表層に現れない悪意は露わにされることなくそのまま流され「沈み込む」ことによって共有・伝播していく。そんなことを話し合った。

その友達は私がこうしてネット上に政治的な内容を書くことを「泥状態」と呼んだ。確かに感情的な反論しかしない(できない)人たちを「説得」することなんて、ドンキホーテ的義侠心でしかないのかもしれない。でもね、泥水が汚ければ汚いほど蓮は綺麗な花を咲かせるのです。その花を見分ける人は必ず現れると私は思っている。

沈殿する「悪意」を露わにし表舞台へ引きずり出し「それは間違っている」と指摘する、それがこの「現状」を変革することへの非常に小さな一歩で——結局のところ私にできるのはその程度だけれども、だがそれは無意味ではないはずだ。私がここに戻ってきた理由は、そんなところです。

*1:国籍なんかたいしたことではない、どうでもいいと思うのは、単に「日本にいるが故に意識しないですんでいる」という側面からきている可能性もあることを考慮してほしい。

*2:参照:http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090609/1244502212

*3:ちなみにニュースソースはわれらの産経新聞。もし産経正論文化人へのリップサービスのつもりでこんなことをいっていたのならその「貧困なる精神」に寒気がするし、そういうことをいえば喜ぶだろうと思われているのも日本の「病理」を見透かされているようで、やはり背筋がぞっとせざるをえない。