やっぱり石井タソ!【2007参院選】何たる選挙戦(3)に伝説の石井英夫登場!

みんなの朝のおたのしみ短期集中連載【2007参院選】何たる選挙戦(3)であるが、選挙戦終盤となり、ついに伝説の元産経抄執筆担当:石井英夫御大が登場した。待ってました!と大向こうから声を張り上げたくなる。まさにまんをじしての登場。まんをじして。二回も繰り返す必要はないわけですが。まんをじして。

【2007参院選】何たる選挙戦(3)世論も新聞もお盆の上の豆

 「私はかねがね、新聞というものは大きな見出しよりは小さなベタ記事のほうが面白いことが書いてあると信じている人間です」

 これは生前、江藤淳さんがよく口にしていた感想だった(たとえば『保守とは何か』文藝春秋)。

 ところがこんどの参院選では、多くの新聞の“大きな見出し”も“小さなベタ記事”も、ほとんど同じ一色で埋まっている。すなわち「天下分け目」「自民大敗」「ポスト安倍」といった予測や論調やうわさ話ばかり。テレビはテレビですべてのワイドショーが「年金」「花代」「なんとか還元水」「しょうがない」「アルツハイマー」「ばんそうこうの人」といった話題でもちきりである。どのチャンネルも変わることはない。

 世に醜聞と失言の種は尽きまじで、もちろん失言する方もする方だ。しかし参院選の争点はそんな揚げ足とりではないはずなのである。

 「世論なんてお盆の上の豆みたいなものよ。お盆を右へ傾ければ右へ、左へ傾ければ左へ、ザザーッと一斉に転がっていく。新聞報道もおんなじね」、これは曽野綾子さんの痛烈なレトリック(修辞)だった。

 穴があったら入りたいくらいだが、なかには「安倍おろし」をしたくてたまらぬ新聞もあるらしい。こうして世論とマスコミが二人三脚となって、明日にも政権交代が実現するかのような報道ぶりにもなっている。

 ちょっと待ってくれ。参院選衆院の総選挙と違って総理大臣を選ぶのが目的ではない。そもそも自民・公明は衆院過半数を維持している。選挙の結果、万が一安倍退陣というような事態が起きたとしても、同じ自民からほかのだれかが出てくるだけなのだ。

 それより何より、社員食堂の日替わりランチのメニューではあるまいに、くるくると指導者の顔をすげ替えてどうしようというのか。安倍さんは「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げて、ともあれ教育や政治の改革に乗り出したばかりのところである。その首相を道半ばで引きずりおろし、一体だれにこの日本丸の航路の舵(かじ)をまかせようというのだろう。“何たる選挙報道”、海外も日本のていたらくを見ている。いまの世論と一部新聞には、そのあたりの覚悟と存念(ぞんねん)があるのかどうか、聞いてみたい。

 先日、亡くなった宮沢喜一元首相は世論調査というものに強い不信感を持っていたらしい。「政治のリーダーは大型タンカーの船長のようでいい。表立って目に見えないが、ブリッジで仕事をしている」という政治哲学だったそうだ。

 宮沢さんの政治姿勢には必ずしも賛成しなかったが、この言葉には大いにうなずかされた。大型タンカーの船長は映画『タイタニック』のディカプリオのように、船首に立って叫び立てたりはしない。しかし外からは見えない操舵(そうだ)室で羅針盤なり何なりをにらみ、船がきちんと目的地をめざしているかどうかを見定めているのだ。

 政治家、とりわけ“良識の府”である参院はそういう人こそふさわしいと思うのだが、どうだろう。オレが、オレがの政治家ではない方がよろしい。

 大ヒットした歌曲『千の風になって』の紹介者である作家の新井満さんから『自由訳 老子』(朝日新聞社)という新著がおくられてきた。そのなかに「最高の政治家とは」という一章があった。新井さんによる老子の自由訳はこうである。

 《政治家にもいろいろあるが、最高の政治家とは何か…/それは国民からその存在を意識されない政治家である/「いることはもちろん知っているのだが、つい忘れてしまうのだなあ…」》

 つい忘れてしまう人といっても、何もしない怠惰なやつではない。大きな仕事をなしとげても自分の手柄にせず、失敗しても言いわけしない政治家。それそれ、『老子』のいうそういう候補者がどこかにいるだろう、とこれは自分に言いきかせた。(石井英夫)

(2007/07/26 08:08)

それにしてもこの御大の変わらなさっぷりには脱帽。(あと今回はひざを打たなかったのね)某大手新聞を揶揄し、曽根綾子の独善的な言葉を紹介し、それを「お盆の上に」おきっぱなしにしたまま、唐突にタイタニックにおけるディカプリオとタンカーの船長の対比になり(乗客と操舵者を一緒にしてどうする)、相田みつをモドキの老子現代語訳を引用して終了。はじめから終わりまで石井タソ節全開でドキがムネムネしっぱなし。やっぱりこれじゃよこれと赤ひげ薬局じゃなくても断言したくなりますよ。最近の産経SHOWが石井タソの頃の輝きを失い、単なるデムパへ劣化しているのを考えるとここは御大にぜひ復帰していただきたいといふもの。カムバック!御大!と興奮はさておき個別にみていきたい次第でございます。

まずは最初の江藤淳の話からマスコミ各社の批判へのくだり。

 ところがこんどの参院選では、多くの新聞の“大きな見出し”も“小さなベタ記事”も、ほとんど同じ一色で埋まっている。すなわち「天下分け目」「自民大敗」「ポスト安倍」といった予測や論調やうわさ話ばかり。テレビはテレビですべてのワイドショーが「年金」「花代」「なんとか還元水」「しょうがない」「アルツハイマー」「ばんそうこうの人」といった話題でもちきりである。どのチャンネルも変わることはない。

kkk新聞の場合は“大きな見出し”も“小さなべた記事”も安倍擁護の一点で埋まっている感がしますがなにか?しかしねえ、この見出しは別に躍起になってマスコミ陣が探し出して暴露って善良な一般シミーンはそれにウンザリという図式にはどう贔屓目に見ても程遠く、ネタは政権側がウンザリするほどだしてくれるし、マスコミもいちいち反応したりしてどちらかというとどっちもどっちだなという印象が強いのではないだろうか。

 世に醜聞と失言の種は尽きまじで、もちろん失言する方もする方だ。しかし参院選の争点はそんな揚げ足とりではないはずなのである。

だから年金問題外交政策の不首尾経団連誘導の経済政策への批判は醜聞じゃないと何度言ったらいいんやら。まあ醜聞と思っておきたい乙女心と秋の空なんだろうけど。騒ぎ立てるほうが悪いなんていわれても。

 「世論なんてお盆の上の豆みたいなものよ。お盆を右へ傾ければ右へ、左へ傾ければ左へ、ザザーッと一斉に転がっていく。新聞報道もおんなじね」、これは曽野綾子さんの痛烈なレトリック(修辞)だった。

 穴があったら入りたいくらいだが、なかには「安倍おろし」をしたくてたまらぬ新聞もあるらしい。こうして世論とマスコミが二人三脚となって、明日にも政権交代が実現するかのような報道ぶりにもなっている。

 ちょっと待ってくれ。参院選衆院の総選挙と違って総理大臣を選ぶのが目的ではない。そもそも自民・公明は衆院過半数を維持している。選挙の結果、万が一安倍退陣というような事態が起きたとしても、同じ自民からほかのだれかが出てくるだけなのだ。

上でも述べたが曽根綾子の独善的な言葉(個人的には何様のつもりなんだとは思いますが)を引用し、そういや昔、南京大虐殺40万人説を唱えた新聞があったなあ今はないことになってるらしいけどと思い出したりしましたが、さすが石井タソ、面倒なことは「穴があったら入りたい」の一言でスルー決定。それを「“安倍おろし”をしたい新聞」へ結びつけツルツルと快調な筆滑りを見せてくれる。つーか衆院の総選挙だって総理大臣を選ぶのが目的じゃない気がしますけれども…。

 それより何より、社員食堂の日替わりランチのメニューではあるまいに、くるくると指導者の顔をすげ替えてどうしようというのか。安倍さんは「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げて、ともあれ教育や政治の改革に乗り出したばかりのところである。その首相を道半ばで引きずりおろし、一体だれにこの日本丸の航路の舵(かじ)をまかせようというのだろう。“何たる選挙報道”、海外も日本のていたらくを見ている。いまの世論と一部新聞には、そのあたりの覚悟と存念(ぞんねん)があるのかどうか、聞いてみたい。

この「社員食堂の日替わりランチのメニュー」という例えがイイ!道半ばで引き摺り下ろすっていわれてもなあ。だめだと思ったらさっさと変えたほうがいいんじゃないだろうか。kkkタソの気に入らない政治家が大臣になれば「撤退する勇気を持て」とか言い出しそうだなあ。

 宮沢さんの政治姿勢には必ずしも賛成しなかったが、この言葉には大いにうなずかされた。大型タンカーの船長は映画『タイタニック』のディカプリオのように、船首に立って叫び立てたりはしない。しかし外からは見えない操舵(そうだ)室で羅針盤なり何なりをにらみ、船がきちんと目的地をめざしているかどうかを見定めているのだ。

とりあえず誰か石井タソに「ディカプリオは単なる乗船者であって、操縦なんかしてないよ」って教えてあげてください。この辺の勘違いっぷりがまさに石井タソの真骨頂って感じでうれしくなります。たまらんわい。しかしなぜ唐突にタイタニックがでてくるのか?深層心理の中に「誤った舵取りで沈没する船」のイメージがあるのかもしれない。もちろん船長はあの人ですが。

 政治家、とりわけ“良識の府”である参院はそういう人こそふさわしいと思うのだが、どうだろう。オレが、オレがの政治家ではない方がよろしい。

 大ヒットした歌曲『千の風になって』の紹介者である作家の新井満さんから『自由訳 老子』(朝日新聞社)という新著がおくられてきた。そのなかに「最高の政治家とは」という一章があった。新井さんによる老子の自由訳はこうである。

 《政治家にもいろいろあるが、最高の政治家とは何か…/それは国民からその存在を意識されない政治家である/「いることはもちろん知っているのだが、つい忘れてしまうのだなあ…」》

 つい忘れてしまう人といっても、何もしない怠惰なやつではない。大きな仕事をなしとげても自分の手柄にせず、失敗しても言いわけしない政治家。それそれ、『老子』のいうそういう候補者がどこかにいるだろう、とこれは自分に言いきかせた。

そういや片山虎之助自由民主党参議院幹事長は「政治が悪いとえらそうなことをいわれても選んだ国民が悪い」なんていってましたけど、これなんか「オレがオレが政治家」の典型と思いますがいかがでしょう。また比例区の某自民党候補者で一クラスしか担任してない割には教育評論家としてマスコミで盛んにコメントし、教育制度改革教員にはモラルをといいながら自身は教え子を高校中退させ結婚しているという人もいますが、これまた「オレがオレが」の典型的な人物だと思いますけれども、こんな人は当選しないほうがいい、と断じるのは至極そのとおりだと思います。
最後の〆もまたよし。「大きな仕事をなしとげても自分の手柄にせず、失敗しても言いわけしない政治家」は、ただ法案を通しただけの「防衛省へ格上げ」も自分の成果にはしないだろうし、「弁当を食って帰ってきただけ」疑惑の第一次小泉訪朝も手柄にはしないだろう。そして年金処理問題についてもジチローのせいにして言い訳したりなんてことはしないだろう。最後まで期待を裏切らないオデキで、ああやっぱりステキ石井タソ、戻ってきておくれ。