7/26kkk抄残酷物語

連日連日埋めても埋めてもどっかから水が漏れ出す穴あきバケツのケアに疲れ果てたのか産経show。今日のネタは普段「正しい日本語」だの「ゆとり教育のせいで豊かな日本語が失われていく」などと意気軒昂な中の人の珍しい愚痴でございました。

産経抄
 20日付小欄で、「願わくば」と書いたところ、たくさんの読者からお叱(しか)りの手紙やメールをいただいた。きっと日本の古典文学に通じている方々なのだろう。「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」。西行法師の有名な歌がすらすらと口をついて出てくるのに違いない。

 ▼文法的に間違いだ、との指摘もあった。その通りだ。もともと「願わく」とは、「思わく」「惜しむらく」と同じように動詞や形容詞の語尾に「く(らく)」がついて名詞化したものだ。これを「く語法」という。「願うこと」の意味だから、当然助詞の「は」がつく。

 ▼ところが、江戸時代あたりから、「願わくば」が出現して現在に至る。『岩波国語辞典』は誤りと断言するが、手元にあるほとんどの辞書では使用を認めている。言葉の変化に対して、辞書の編者の姿勢の違いが表れていて興味深い。あくまで元の形を重く見るのか、広く使われている事実を受け入れるのか。

 ▼12日に88歳で亡くなった言語学者柴田武さんに見解をうかがってみたかった。トルコ語から方言学までその研究分野は広く、身近な言葉の語源をわかりやすく解き明かすベストセラーの著者としても知られていた。

 ▼「ら抜きことば」に寛容だった柴田さんは、「花に水をあげる」という言い方には反対して、目下や動植物には断固「やる」だ、と主張していた。「ことばの美しさ」は、「表現する内容」と「話し手の品格」に結びつくというのも持論だった。

 ▼柴田さんが、ともに編者を務めた『類語大辞典』(講談社)では、「願わくは」の項に、「ねがわくばともいう」の説明があり、『新明解国語辞典』(三省堂)には記述がない。やはり、日本語は難しい。

(2007/07/27 06:25)

ここ最近一面コラムとしてはダントツに独走態勢(ヲチ対象的に)だったのをみると、もう日本語としてどうこうというよりも人としてどうこうというレベルに追い込まれていたのかも。(かつてはアカヒのお家芸だった「ぜんぜん違う話を“だが冷静に考えてほしい”などという一言でアクロバティックに結合させる」なんて技を今読めるのは産経抄だけ!)まあ本日の内容をまとめると「いいじゃねえか辞典に載ってんだから文句あっか」ということでしょうが、自己正当化に終始して八つ当たり気味なのをみると、とりあえずビールでも飲めといいたくなる。(もっとも、抗議がきたのは「助詞の使い方」だけだったのか。激しく気になるところではあるが)なんつーかここまで「悪くないやい」と腕をぶるんぶるんさせて喚かれると、「産経show半泣きワロス」などと輪をかけて煽られでもしたらかわいそうだとすら思う。同情をひいて許してもらおうということなのか!?なのか!?