溝口「雨月物語」の向こうに見えるラサ暴動(まとめきれないけど)

溝口健二特集をいま早稲田松竹でやっている。早速見に行く。

本日のプログラム「雨月物語」はまだ見たことなかった。結果はやはりすばらしいのひとこと。たぶん後日もっと長いレビューを書くと思うけど、なんていうか、こういう映画があるんだから「デビルマン」があるのもバランスをとるためにはしょうがないのかもしれない、紀里谷みたいな糞監督がいたって、昔日本には溝口健二がいたんだからいいじゃないかと意味不明な納得すらできそうな傑作だった。(どうでもいいけどここ最近小沢栄太郎の顔ばかり見ている気がする)

この映画は戦乱の世に蹂躙される市井の人々が主役である。だが、だからといってあからさまな反戦映画ではない。身の丈にあった幸せを願う心を戦争とそれに伴う動乱好景気が容赦なく踏みにじっていく。国家という大きな枠組みの中では庶民なんてどうなろうとまったく意に介されない。だが、生きていくしかない。その物悲しさを思う。

ラサ「暴動」についてはとてもつよい憤りを抱いている。余談だが、昔の知り合いにダライラマの愛人(全盲のドイツ人)を世話していたという人がいた。そんなわけのわからない経緯でも、私にとってその思い出ひとつとっても妙にチベットという国に対する親近感が沸いてくる。ちなみにその知り合いはご主人が共産党員だった。私は彼らがどんなに熱心にチベット独立運動を支援していたか知っているので、サヨクチベット問題について何も言わないというウヨクの捨て台詞を目にするたびに正直違和感をぬぐえない。

以前参加したポール・ルセサバギナさんの講演で、ダルフールに代表される世界で「いま」起きている虐殺をとめるには、まず、あなたが隣人に対する偏見を取り除くことから始まるのです、と語られていたことを思い出す。チベットで起きていることをとめるにはまず自分の中の「イントレランス」を見出すことから始めないと何もならない気がする。チベットでもダルフールでもガザ地区でも「いまここ」で悲しい事態が進んでいる。それをとめるには、まずは「不寛容」から脱却することが先決であり、国際社会を動かすのは、そういった地道な努力の結果であることを思い知らされる。