はてなブックマークにみる文章力と読解力のハザマで
記事を書いたときにはまさかこんなに反響がくるとは思わなかった。なにせヘンキョーのドマイナーブログですからね。
「チベット問題を政治利用するのは誰か」
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080322/1206179859
この記事はもちろん是々非々でことにあたっている私のような右派左派ブロガーや、昨今の報道により今このチベット問題について知って憤りを覚えているような人々やチベット問題に深い関心を持ち言及してきた人々(右派左派問わず)を対象にしたのではなく、新風をはじめとするチベット問題にかこつけて左派を過剰に攻撃したり、あるいははなっからチベットで虐殺されている一般市民について考えどうしたら彼らをよりよい形で「救済」できるのかということへの関心よりも、ただただ中共を叩くことしか頭にない人々に対して書いたつもりである。ところがこの記事に付けらた「はてなブックマーク」(下記URL参照)を読むと、私の文章力のなさゆえ、誤解誤読されている方が結構見受けられる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080322/1206179859
当該記事にいただいたコメントやブックマークについたものを読んでいると「政治利用」という言葉と「売名」の区別がついてないような人も散見される。私だって署名やデモに参加したい。だが、それが新風やチャンネル桜主催となると待ったをかけたくなる。たとえばこういうデモが共産党や創価学会が主催しているとなれば二の足を踏む人も出てくるだろうし、私のように批判する人間もいるかもしれない。だが、チャンネル桜や新風といった団体を批判する内容を書くと「やる偽善のほうがいい」または「産経だっていいこといってるときは賛同しろ狭量だ」等々という意見が出てくる。これが不思議でならない。確かに産経だって時には正論を言うだろう。だがそれがどういう思惑ででてきたものなのか考慮した上で判断するべきで、字面だけみて鵜呑みにすることは危険であると私は思う。そりゃ産経と仲良しの世界日報だって「マトモ」なことをいうときがあるだろう。聖教新聞の平和を謳う記事はどう考えても「まじめ」なものである。だがそのまま受け取るのはどうかと思う。
先の記事の中で私は「産経新聞におけるチベットの論調」を取り上げたのではなく、「遠いチベットの人権について考えろ」との産経抄の言葉とともにその訴えたい「意味」について取り上げた。産経は「遠いチベットの人権」について思いははせても「近い日本」の沖縄基地問題といった「人権」には思いをはせないらしい、ということだ。産経が今まで沖縄基地問題や米兵犯罪問題について何を言ってきたのか、それを丁寧に追っていった人間ならば、「お前が言うな」としか言いようがない。ここで重要なのは、私は「産経はチベットのことについて書くな」または中共のいうように「チベットには人権弾圧なんてない、だから産経新聞の記事は間違っている」ということがいいたいのではない。「産経は人権重視の立場をとるのならば沖縄問題についてももっと“人権重視”の立場にたつべきではないのか。それなのにどうして沖縄の人権を尊重どころか無視し批判までするのか。それでは“人権”の選択ではないか?もしそうならばなぜ産経は“人権の選択”を行うのか」という「提議」である。これは産経だけではなく、例えば「韓国には戦前戦中と日本は資本を投資しインフラ整備をしてやったんだから賠償だのと文句を言うな」という一方で「シナ人はインフラ整備してやったからチベット人大量虐殺くらい許されると思っているみたいだ。そのような考えの中共は打倒せよ」と語る人々も同様である。これは是々非々で語るのではなくダブルスタンダードであると私は思う。
そもそも、とふと思う。左を糾弾する文章ならばこんなは反応なかったのだろうか。確かに日本共産党は今回のチベット騒乱について明確なコメントを出してない。(それをいうなら石原慎太郎もそうだな)これには日頃体制側の弾圧を告発し、人権保護を訴えている政党であるのにどういうことだと非常に失望しているし、やはり旧態依然の左翼は駄目だ、という言葉が正直のどからでかかる。だとしても、ピースウォークがなんの声明もだしてない!と単なる告知サイトにまで難癖をつけるようなコピペを2ちゃんねるのあちこちに貼り付けるのは行き過ぎではないか?左派だって動いている人や声明を発表している団体があるにもかかわらず一律決め付けることに対して、私は自分が右派だからこそ、納得ができなかった。それでは「左派を叩く機会として政治利用しているだけだ」と「左派」からの批判を逃れ得ないのではないか。ちなみに私の使う政治利用とは「ある出来事を自らの政治的主張を知らしめるため建前として用いる」(一例を挙げるならば、チベット問題なら本当の目的→中共批判、米軍基地問題なら米軍が問題を起こすことを利用して、日米安保打破の喧伝のために使用する)ということなのだが、そうなると私のことを「政治利用」という人たちは、いったい私がどういう「政治的主張」のためにチベット問題を「利用」しているんだ、と尋ねたくなる。私が通常どういうことを主張しているのか全く省みずに「こういうことをいうのは左翼だ」と決め付け「読まず」に批判し、そういうレッテルを貼って安心しているだけなのか。例えばこの人のように。
■チベット問題で沈黙している者は誰か
http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080323/p1
普段は特に当方へ絡まない割りに、ブックマークコメントが増えた記事に対して「だけ」嬉々として絡み、左翼だー左翼だーとレッテルを貼ることに汲々としているこういう人もいる。不思議だねえ。最近の左翼の動向に疎いからよくわからないけれども、近頃の左翼は靖国神社へ参拝し英霊に涙し、総理大臣ならびに天皇陛下への靖国公式参拝(親拝)を主張し、憲法9条改正を訴えるようになったとは。なるほど世界はものすごいスピードで「チェンジ」しているわけですな。まあこの人の場合「政治利用」というよりも「売名行為」に近い気がするけれど。随分話が横道にそれてしまったが、とまれ私のように出来事に対して是々非々で語っているような人間は「陣営」からは排除されるのかもしれない。右からも左からもどっちつかずと批判されやすいし。ただ「わかってほしい人々」にはわかってもらえているようなので、そこをせめてもの慰めにしたい。もっとも誤読させたのが作者の責任というのならば、なんというか自分の文章力のなさに反省するのみである。 閑話休題。
上記記事の中で私が言いたかったのは、チベット問題を語るならせめてチベット人がいまどういう状況におかれ、何を望んでいるのか調べてからいうべきだし、ダライ・ラマ14世支持を訴えるのならば、少なくともダライ・ラマ14世が何を主張しているのか知っておくべきだし、その上で考え行動すべきであるということなんだが、どんな出来事においても慎重さを保とうとすれば確かにまどろっこしく見え、また、相手を批判しないという見方をされるのかもしれない。(実際は批判を以前から続けているのだけれども)そしてブックマークコメントにいくつか見られたことで驚いたのは「じゃあどうしたらいいのかがぜんぜん書いてない」という批判だった。なんというか、実際に現地へ行ったこともなければ、チベット問題について専門的に勉強したこともない、ましてや現地に血縁がいるわけでもない私が、「どうしたらいいか」などと言うことはかなりおこがましいと思う。そんな安易な話だと思っているのなら、民族問題についてあまりにも知らなさ過ぎるのではないか。いちばん回避すべきなのは安直に答えを出した気になって自分を納得させることではないだろうか。こと民族紛争弾圧問題については、国内のような情報の入りやすい状況とは違い、支局がなかったりといったマスメディア側の「集中力」の問題や言語の問題によって、情報が入手しづらいこともあり、もちろん武力弾圧や虐殺には真っ向から反対するが、それ以上の、「ではチベットはどうするべきなのか」といった部分への踏み込みにはどうしても躊躇してしまう。この辺は海外サイトを読み込むだけの英語力をもたず、国際問題は基礎知識程度しか持ち得ない私にとっては、超えざる壁である。
チベット問題は、多くの「民族紛争」「民族弾圧」と同じく、YESかNOかで切り分けることのできない問題である。(そしてそういう風に安易にたちぎり難くしているところに中国政府の狡猾さをみるのだが)それは日本の例でいえば沖縄米軍基地問題と同じで、米兵が横暴だ犯罪率が高いといっても、その米軍に沖縄が(語弊を恐れずにいえば)「依存させられている」ことを考えると、そう簡単に米軍撤退を訴えられないのと同様である。利害が複雑に絡む以上、状況を見極めないと(できるならば中共や亡命政府の直接フィルターを通さない、どちらに思い入れがあるかというのは別にして、第三者をつうじた報道、現地情報が知りたい)なんとも言及が難しいのだが、せめて武力行使やチベット人民への弾圧はやめさせたいとは思う。ではどうすべきか。なにもない私はただ言葉を飲み込み立ち尽くすだけだ。ただ、私は(ダライ・ラマ14世をめぐるさまざまな関係やオウムとのつながりCIAからの利益供与などを考慮したうえで、なお)ダライ・ラマ14世の「政治力」に希望を見出すがゆえに、そしてチベットの私の知る限りの現状を鑑み、「独立」を「よし」とは言いがたい、とおもう。またダライ・ラマ14世を支持するのならば、これ以上の弾圧激化を避けるためにも、徒に「独立」や「北京五輪ボイコット」を訴え煽り立てるのも、また控えるべきではないか、と。左記を踏まえできる限り自分のできる範囲内で(こうして文章を書くのもそのひとつである)チベットの現状打破を訴えたいが、民族問題は長期化する傾向が大変強いため、持続がなによりも大切だ。それこそホテル・ルワンダで「かわいそうねとディナーの話題にして終わり」だけは避けたい。そして以前ホテル・ルワンダ上映時にひらかれた竹内進一氏の、講演での言葉を思い出す。
「こういった映画、あるいは話し、本などを読むと「私になにができるか」といった部分で考えがちだが、まずはそういう考えや行動を起こす前に『アフリカを知って欲しい』。なにをしてあげようかよりはアフリカをまずは知る。」
ルセサバギナ氏も「この映画を見たひとりひとりが映画を契機に意識を変えて、ひとりひとりがメッセンジャーになって欲しい。そうなればルワンダ、アフリカの現状は変わると私は思っている。」といっていた。アフリカを他地域に置き換えれば、実に普遍的な内容である。このチベット問題に触れたひとたちが意識を変えて、メッセンジャーとなっていくこと。非常に迂回的な方法だが、私も氏と同じように、世界を変えていくために私ができることといえばこれぐらいであると思っている。国と国との対立の狭間で、また国内における縦割り行政の犠牲となった一般庶民の悲劇についてここ数日考えていたので、よけいに取りこぼされていく人民について、それをなんともできない自分に対して、苛立たしさとやり場のない怒りを抱えたここ数日だった。