「政治的に中立な映画なんて存在するの?」と猛者なみなさんにお聞きしたいのですが。

「政治的に中立な映画」などと騒いでいるアホ代議士がいますが、そもそもそんな映画存在するのだろうか。そして「政治的に中立であること」≠「宗教的、政治的な宣伝意図を有する活動でないこと」であることがわかってない人も多い。個人的にはそのあたりを混同する人は「宗教的、政治的な宣伝意図を有する」映画を見たことがないのではないか、と思うが。プロパガンダ映画好きからすれば、文化庁外郭団体の応募基準「宗教的、政治的な宣伝意図を有する活動でないこと」が、どういう作品を意図しているのかなんとなくわかるが、まあ差しさわりがあるのでかかない。いや「人間革命」は丹波哲郎の演技が素晴らしい映画ですよ?それはさておき、第一、問題意識や伝えたいテーゼがあるがゆえに映画というものを作成するのだろうし、そうなれば「政治的に中立」というのは二律背反するのではないだろうか。ていうか「政治的に中立」ってなんだ?

「政治的に中立」といえば聞こえがいいが、しかしそれは誰が判断するのか。国家か?観客側か?国家の考える「政治的に中立」な映画とは何か考えてみる。国家体制側が「政治的に中立」という意味を求めた場合、すでにそこに「国家体制による検閲」(情報の取捨選択が行われている時点で検閲である)が生じているのは否めないし、ある国家において「政治的に中立」な映画が、他国でも同義とは限らない。とどのつまり国家の思う「政治的に中立」というのは「てめえに都合のいいもの」でしかありえないのではないのか。

では観客側にとって「政治的に中立な映画」とはなにか。今度は「どちら側にもおもねっている」映画になると思う。(バランスがいい作品と「どちら側にもおもねっている作品」であるのとは違う。)それは双方の立場からみて楽しめる作品でもあるし、どちら側にも配慮した結果ではなく、パワーバランスをどうとらえるのかという「監督の視点」が介在して中立ではなく「離れた」作品に仕上がり、結果として「普遍性」にまで片足突っ込んでいるケースが往々にしてある。そこに行けずに落下したどちら側にも配慮した映画、というと例えば「プライド」といった映画を連想するのだが、こうした「観客側にとって政治的に中立」であろうとした映画を思い浮かべると結局どっちつかずになって単なる駄目映画に落ち込んでしまう結果となっている。それは言い訳に終始しているといってもいいかもしれない。そんな作品、誰が見たいんだ?「どっちつかずで意味不明」な「プライド」よりも、リミッター振り切ってエンジンぶっ壊れるまでやるぜ上等!の「ゆきゆきて、神軍」のほうがまごうことなき傑作であるのは明らかなのだ。でもって真に「政治的に中立な映画」というとなぜか「大日本帝国」が浮かんでしまう私でございます。