「家族」レトリックについて追記

前回の「家族レトリック」についてこんな意見をいただいた。

「家族会議に友人のレトリック」に関してはそもそも政治の場を「家族会議」とモデル化する時点で自称リベラリストとしては相当ぞわぞわ来てるんですけれども、感覚的な所だけではなくて、その「家族会議が持つべき私的排他性」という要素を民主主義(の中でも地方自治)という「公的な場」に対して無批判に、スッポリと当てはめている所が綻びの根源だと思います。
つまり、「家族の私的性格」というものを主張する必要性としては、「家族のことに対して国家が介入するのは最低限に留める」という観点から「国家の公的性格」と対置してこれを考えることによって私的領域を確保する必要性が導かれ、同時にその正当性も生じるのだと思いますが、このレトリックでは地方自治の「私的性格」に対応する「公的性格」の持ち主が見えて来ず、「私的性格」を打ち出す必要性を欠いているため、それを述べる正当性も薄弱であるように思います。(つまり、反対派の皆様が援用したい、という以上の必要性がそもそも無いのではないか、ということです。)
また許容性としても、そもそも「家族会議の私的排他性」が「家族のことは家族で決めるんだ。結局家族は運命を共にするんだから。」という、結果に対する責任の行き先(結果の降りかかる対象)が「家族」内で閉じていることに由来していることを考えれば、地方自治を家族会議になぞらえるためには「地方自治の結果は『家族』たる日本国籍を持つ住民に対して閉じられていること」が必要になってきますけど、当然のことながら地方自治の結果はその地域の非日本国籍住民に対しても適用される訳で、その点でもこのレトリックは前提を欠き、通らないと思います。
という訳で、必要性、許容性の両面から本レトリックは破綻しているように思います。

参考になったのでこちらに転載する。