阿久根市壁画アート問題について

正月から阿久根市の壁画アートが話題になっている。

「日本一のシャッター街・阿久根」
http://portal.nifty.com/2010/07/02/a/index.htm
(のちに自身のツイートで「竹原前市長は叩かれ過ぎ」などと擁護的な発言をする)

「写真で見る阿久根市の現状ー独裁政治の悲劇ー」
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/
(タイトルからもわかるように反市長派の人間が作製していると思われる)

私としてはアウトサイダーアートっぽい感じがきもいなとは思うけど、個人的に言えばそれはどうでもいい些末な事だ。それよりも「阿久根市というよりも前市長が行った政策の抱える問題の一端」と思うし、それ以上でもそれ以下でもない。

で、あるとき、私のツイッターTL上にこんなRTが流れてきた。

野宿者の寝場所を奪う目的のためだけに行政とかがよく設置する、街に溢れる奇怪なオブジェというか現代アート?のほうがよっぽどグロいし、祝日になると街じゅうにはためく日の丸とかのほうがよっぽどグロいわ。

いやもうビックリですよ。

前々から阿久根市というか前市長の問題をみてきた人ならこの「問い立て」がおかしいということがわかってもらえるだろう。前市長の問題を端的に表現するならば「阿久根市において全体主義を確立しようとしている」ことであって、そしてそこには「小泉カイカク路線」から連綿と続く「カイカクバンザイ主義」とでもいうべき問題(本質的な解決ではなくスケープゴートを設けることによって目をそらさせ、その実質は市民の足下を切り崩していく「作業」に過ぎないということ)が深く根を下ろしている。だから私としては「行政主導の(壁画)アートというものがありかなしか」という議論は今回の阿久根市に限っていえば問題の本質が矮小化されてしまう恐れの方が強い。ましてやホームレス忌避のための現代アートと比べるなんて問題すり替えもいいところである。そんな「単純」な話じゃないんですよ。

繰り返すが、阿久根市壁画アート問題は阿久根市というかあの前市長によっておきた多角的な問題の一つに過ぎない。

市の事業として行うのならば、
1.誰の発案でどのような経緯で誰が決定したのか
2.議会の承認を得たのか
(必ずしも得る必要がないけれども今回の事案は公共性が高いから必要ではないのか)
3.予算配分はどうなっているのか

すくなくともこのあたりの「透明性」は担保されるべきで、そういう意味からするととても今回の「事業」は担保されているとは言い難い。現状、私が知る限り(いつもの)前市長の独断と思いつきとしか思えない。そして真偽不明ではあるが市長命令だからと現場の意見を無視して強行しているという話もある。(参考:ここここ)そんな状態でとても「市民の支持を得て始めた事業」といえるのだろうか。

「こうして話題になることによって結果が出たからいいじゃないか」という意見もあるかもしれない。だがたまたま「結果」らしきものがでたからといって経緯をないがしろにすることが肯定されるなんて事はあり得ない。なぜならここは「民主主義」国家であり「地方自治法」のある「法治国家」だから。たまたま「よかった」つまり博打であって、そんなものが民主主義の上に君臨するなどと思えるのならば、公民の授業をもういっぺんやりなおしてこい、としか、私には言えない。